〔週俳4月の俳句を読む〕
岩淵喜代子
対象への拘泥
水羊羹アルミの缶にかたどられ 寺澤一雄
特急の映り了りし植田かな 南 十二国
寺澤氏は毎日十句をミクシイ・ブログで発表している。飽きもせずにと思うほど精力的だ。毎日10句ということは、一ヶ月300句、一年で3000句以上。こうした多産な作り手が句集を作るときに、どれを残しどれを捨てるのかに興味がある。寺澤氏の句の逆転的視覚は、南氏にも通じる表現方法。
いく度も米搗虫を裏返す 寺澤一雄
一人静ひとりしづかと唱へけり 川嶋一美
そうしてこの二句にも、対象への拘泥という共通項がある。それにも関らず、南氏と川嶋氏の作品は叙情的になり、寺澤氏は諧謔的になるから不思議だ。寺澤一雄氏の志向のぶれのなさ、それは老練とも言えるほどに貫ぬかれている。
鳥の恋革の手帳の角潰る 小川軽舟
寺澤氏にも通じる小川氏ならではの句。何事も無い日常の何事もなさを掬い上げることで世界を作り上げ、俳味を創造するのが得意な作家である。使い込んだ手帳の端がやや潰れてきたことが、鳥の恋の季語を得て鮮やかになる。それはある種の倦怠感でもあるが、暗いものではない。
七三に分けたらたんぽぽ咲いていた 江口ちかる
諧謔的といえば、寺澤氏や小川氏にも通じる句。朝の光景として、わけもなく面白く、たんぽぽの鮮やかさを浮き上がらせている。
初蝶のニクロム線の匂ひかな 山口昭男
山口氏は全体的には感覚派。一句目のニクロム線の匂いがどんな匂いと言われても、知らないのだから説明できない。それなのに、蝶の中の初蝶の匂いと断定されればそうかもしれないと宜える。蝶のどこか金属的な形状によって納得させられてしまうのだろうか。ひょっとして作者だってその匂いを知らないかもしれない。このような断定で説得力を持ったら、それは表現力と言ってもいいのではないだろうか。
矢印へ急げ急いで春の尿 麻里伊
入口が出口桜の苑閉ぢる
麻里伊さんはシュールレアリズムの傾向を帯びながら、あやういところで着地を決める。「矢印へ」の唐突感が「春の尿」へ畳み込まれてゆくリズムの面白さが、春である。「尿」といえば、森澄雄の「枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ 」、芭蕉の「蚤虱馬の尿する枕もと」があるが、麻里伊氏のは今までに見ない明るさを得た「尿」である。ならば「春の」はどうなのかという意見も出そうだ。しかし、消去法でいくと春が残るのである。さらにいえば、春の季語を得て着地している。
二句目も麻里伊氏らしい表現。閉園時間の苑を出るときの、ふとした所感。「入口が出口」という何気ない事柄がシリアスに展開する。
■江口ちかる ぽろぽろと 10句 ≫読む
■山口昭男 花 札 10句 ≫読む
■小川軽舟 仕事場 10句 ≫読む
■麻里伊 誰彼の 10句 ≫読む
■川嶋一美 春の風邪 10句 ≫読む
■南 十二国 越 後 10句 ≫読む
■寺澤一雄 地球儀 10句 ≫読む
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2009-05-03
〔週俳4月の俳句を読む〕岩淵喜代子 対象への拘泥
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1 comments:
早速お邪魔しました
とても面白く分りやすく読みました、
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