冷たさ
岸本尚毅とイエローマジックオーケストラ
山田露結
1980年代に一世を風靡したYMO(イエローマジックオーケストラ)。
彼らの演奏する曲はそれまでのポップミュージックとは全く違う感触を持っていた。
当時、まだ中学生だった私はシンセサイザーやシーケンサーなどの電子楽器を駆使したテクノポップと呼ばれるその音楽に何か血の通った生身の人間の演奏ではないような機械的な「冷たさ」を感じたものである。
もちろん、その「冷たさ」はYMOの大きな魅力のひとつでもあった。
夏暑く冬寒き町通し鴨 岸本尚毅
岸本尚毅氏の句を読むとき、私はなぜかYMOの曲を聴いたときと同じような「冷たさ」を感じることがある。
なぜだろう。
もしかするとそれは、言葉のはたらきを熟知した作者による周到な計算の上に句が成り立っているからではないだろうか、などと推測してみる。
掲出句は「週刊俳句」第111号に掲載された作品。
まず、「夏暑く冬寒き町」という表現だが、この句を読んでいくとき、私はそのまま当たり前のことを言っているだけのようなこの言い方に少し不安を覚える。
その不安は「夏」、「暑く」、「冬」、「寒き」と一語ずつばらせばそれぞれがみんな季語だということからくるのかも知れない。
ここでは「夏暑く冬寒き」というひとかたまりは「町」にかかっているわけだから、当然「夏」も「暑く」も「冬」も「寒き」も季語としての機能はない。
下五に置かれた「通し鴨」で季語が確定することよってとりあえず、不安は解消されるのだが、私などは「夏暑く冬寒き町」という表現のあまりにも当たり前すぎる「何もなさ」に、もしかしたらそこに何か仕掛けがあるんじゃないかと変に疑ってみたくなってしまう。
そして、私が抱くのと同じような不安や疑問をこの句を読んだ多くの読者が抱くであろうことはこの作者の意図するところではないかという気もしてくる。
これは吟行句だろうか。
たまたま見かけた鴨から「通し鴨」という季語を見出したこと、そして「通し鴨」の「通し」の語の所為だろうか、鴨を見ている今現在だけでなく一年を通したその町の様子にまで思いが及ぶ。
そして、あらためて「夏暑く冬寒き町」を実感するのである。
「夏暑く冬寒き町」を実感する理由は他にもある。
つまり、「夏暑く冬寒き町」がどこなのか、ということである。
私は咄嗟に京都あたりを思ったが、考えてみれば「夏暑く冬寒き町」なんていうところは日本中どこにでもあるのである。
関東から関西までの間ならほぼどこへ行っても「夏暑く冬寒き町」なのではないだろうか。
ようするに「夏暑く冬寒き」というのは日本の平均的な気候なのであり、日本人の多くは「夏暑く冬寒き」町に住んでいる。
だからこそ、この「夏暑く冬寒き町」は誰もが無理なく実感として受け入れることが出来るのではないだろうか。
「水現れて落ちにけり」は、「自然」に「言葉」の真似をさせようとした俳句です。「群青世界とどろけり」は、「言葉」に「自然」の真似をさせようとした俳句です。(岸本尚毅『俳句の力学』)岸本氏は著書の中で「滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半」と「滝落ちて群青世界とどろけり 水原秋桜子」の句を例に挙げてこのように言っているこのことからも分かるように、氏の目的は「自然」を詠むことではなく、あくまでも「言葉」そのものを構築することにある。
「俳句」2009年5月号には次の句が掲載されている。
朝寒く昼あたたかに涅槃かな 岸本尚毅
この句、「通し鴨」の句とほぼ同じ作り方である。
「朝」が「寒く」、「昼」が「あたたか」なのは当たり前である。
つまり、これはこの作者のひとつのパターンではないかと思われる。
おそらく、作者はこのようなパターンをいくつも(それこそ数え切れないほど)持っていて、それらのパターンは作者の頭の中に常にきちんと整理してしまってある。
そして、組み合わせによって言葉のはたらきや言葉の与える印象ががどう変化するのかを熟慮した上であらゆるパターンを駆使して一句を完成させていく、というのがこの作者の作句方法のようにも思える。
何も難しい言葉を使っていない岸本俳句は、ともすれば何でもない平凡な写生句のようにも見える。
しかし、やがてそこに中学生の頃から俳句マニアだったという氏の経験と自信に裏打ちされたゆるぎない俳句観があることに気が付く。
一瞬、トリビアリズムすれすれのような印象を与えながら実は精密機械のように緻密な構造を持った岸本俳句に私はある種の「冷たさ」を感じる。
そして、その「冷たさ」は、私がかつてYMOの曲を聴いた時に感じた「冷たさ」にやはりどこか似ている。
「通し鴨」の句を読みながら、ふとそんなことを思った。
【関連記事】〔俳句関連書を読む〕『俳句の力学』岸本尚毅(上田信治)
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6 comments:
おもしろく拝読しました。
岸本尚毅とテクノ。つまりは、パトスの拒否、人間味みたいなものの除去という点で共通するということでしょうか。
ちなみに岸本尚毅ファンですが、YMOファンではありません。
peewee様
コメントありがとうございます。
私は岸本ファンでありYMOファンでもありますが、両者を結びつけるのは少し強引かなと思いつつ書いていました。
ですから、「冷たさ」をキチンと説明できずに中途半端な文章になっています。
「パトスの拒否、人間味みたいなものの除去」。
おそらくそういうことだと思います。
ありがとうございました。
露結さま、peeweeさま
冷たさ、といふと冷淡・気味悪いといった語感があるので、
お手軽ですが、「クール」が一番近いのでは?
岸本さんの10句を読んで思ったのは「天地有情」
それをじんじん感じるのは私だけでせうか?
「パトスの拒否、人間味みたいなものの除去」の対極です。
心憎いまでに「クール」、でもそれはレトリックですね。
内面は「燃えー」か」萌えー」ですよ(笑)。
これは虚子俳句道の忠実な伝道なのだと思ひます。
クールに見えるもうひとつの要因:
岸本さんが季題といふものを分解して再構築しようと
していゐるのでは、などと勝手に解釈してゐます。
意識的な季語の重なり、季のまたがりを多用するのは
複数のパースペクティブを一つの絵に取り入れる
ピカソの手法のやうでもあります。
ご本人は笑って否定されるかもしれませんが。
>10句を読んで思ったのは「天地有情」
いえ、むしろ「天地非情」「天地無情」(もちろん造語)を感じます。
冷淡のおもしろさだと思っています。
クールとは、世事・俗事・人事(良い意味でも悪い意味でも)と寄り添いつつ、内外に一定の制御を保つ態度。それらとは隔絶して冷淡。だからこそ、岸本尚毅の俳句はワン・アンド・オンリーだと思っています。
ちょっと気味悪くもある(笑)
たとえば、作句姿勢として「パトスの拒否、人間味みたいなものの除去」を徹底することによって結果的に作品に「天地有情」があらわれる、と言うことは出来ないでしょうか。
ロケツさま
それこそが虚子の言はんとする「客観写生」ですね。
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