2009-12-06

『俳句空間−豈』第49号・特集「俳句の未来人は」を読む ピリオドの描き方 さいばら天気

〔俳誌拝読〕
『俳句空間−豈』第49号・特集「俳句の未来人は」を読む
ピリオドの描き方 …さいばら天気



豈49号(2009年11月)特集「俳句の未来人は」は、相子智恵、北大路翼、神野紗希、佐藤文香、鴇田智哉、外山一機、山口優夢各氏による、見開き2ページずつの記事で構成。

きっとどなたも「未来人」を自認しているわけではなく、「現代人」なんだろうから、この特集への寄稿には苦心する部分があったのだろうと想像する。

それにまた、もとより「俳句の未来人は」という文言は、テーマの内容を限定するものでもない。記事すべてを読み終えて、何かの輪郭が現れてくるというものでもない。けれども「豈」の特集は、かねてより、あえて大括りにして、書き手に自由を与え、同時に、書き手のアプローチを試すようなところがある。これはこれでアリなのだ。

20代、30代という若い何人かの書き手が2ページと限られた紙幅で何を言うのか。関心をもって読見始めたところ、全体にバラエティがあり(*1)、退屈することなく、さらっとすんなり読み終えたた。これは「読み応え」というよくある売り文句とは逆の味わい。「読み応え」が常にエラいわけではないので、こう言ったからといって、いささかもこの特集を貶めたことにはならない。『新撰21』刊行を寸前に控えた「前夜祭」的な狙いが、この特集にはあるのだから、胃にもたれない程度は、むしろ好ましい。

さて、そろそろ、個別の記事のこと。



外山一機・消費時代の詩~あるいは佐藤文香論」は、今日の「新人」たちについて言われるところの「保守性」を、「俳句形式へのフェティシズム」と捉え、それは、俳句表現史を「遡行しつつ食いつぶしていくような消費行動」の末のものであるとまとめる。興味深い整理。

「俳句形式へのフェティシズム」は、「俳句形式への信頼」とは異なる。俳句形式によって何かが可能となるとは信じない。俳句形式そのものが目標ゴールであり、矢で射抜く的なのだ。

フェティシズムは、部分の全体化であり、手段の目的化である。もし、今日の新人に限らず、「大家」の時代・「個人」の時代の終焉以降の流れについて、俳句形式への不信、個人への不信を起点にとらえるなら、ここに「フェテイシズム」の語を宛てるのは妥当。ある種、すとんと腑に落ちる感じがある。

(佐藤文香、高柳克弘の句の楽天性を指摘したのち)彼らにとって俳句とはすでにそこにあったものにほかならない。彼らは「俳句で何をするのか」と問うのであり、「俳句とは何か」を問うのではない。
ここはしかし、やや文言が足りない気がする。「俳句で何をするのか」は古くから問われてきたことで、むしろ可能性への信頼だろう。フェティシズムの脈絡に添えば、彼らは、「俳句で何をするのか」と問われて、「俳句で俳句をする」と答えているのだ。

「俳句で俳句をする」について、答えになっていない、あるいは不毛と考えるか否かは、俳句フェティッシュな作家たち、さらにいえば今日的潮流をどう捉えるかという、各人のスタンスに関わってくる。さらにラディカルなテーマとなり得るはずだ。



俳句の主題が俳句であるともいえるような俳句形式フェティシズムと、ほぼ対極にある論考が「神野紗希・主題はあるか」。

外山論考に見られるような把握を、神野紗希は、別の道筋ではあってもすでに承知しているのだろう。あえて、主題は「ある」、例えば社会へのコミットメントという部分にも「ある」と結論する。この「ある」は、可能で「ある」、簡単じゃないけど、といった意味に解するべき。「社会性俳句」への楽観が述べられているわけではない(為念)。

俳句形式フェティシズム(神野の記事では「俳句形式そのものの追求」の語)を、「誰に向けて書くのか」を支点にして、「俳句形式そのものの追求」は俳句愛好者=少数読者しか巻き込めないとするところ、興味深い。

その正否を判断する前に、ともかくも、フェティシズムがマニアックであることは確かである。多くの読者は、俳句愛好家も含め、俳句「という」成果より、俳句「による」成果を求めるものだろう。

なお、ここからは余談めくので、次の項まですっ飛ばしてかまわない。社会/社会性へのコミットメントという点で、私が思う困難のひとつは、単純なようでもやはり時間/時代の個別性との折り合いということ。

ある種の文芸(俳句もそうだろう)には、結果として、神話的無時間のなかで輝くものがある。ところが社会/社会性とは歴史的なものだ。これはそれほど大袈裟なことではない。カジュアルで些末な例を出そう。

30年前の私と、現在の私。この二人は、ある俳句、ある作家を前にして、おそらくかなり同じような感興を味わうことができる。ところが、ある一定の社会状況、時事ではなく通時的な社会性・社会的テーマ(例:戦争、貧富)に対して、二人の私は、同様のスタンスや把握ではあり得ない。別の言い方をすれば、同様であってはいけない。人のそれぞれの歴史(加齢)のなかで、社会/社会性へのコミットメントは大きく変わる(変わらなければならない)。

そうしたときに、俳句と社会性の関わりは、個人のなかで、個人の集合体(社会)のなかで、激しく変転してしまう。それはそれで、社会性にコミットする俳句の存在価値を見出せないことはない。たしかに、ある。とはいえ、困難なこともたしか。

社会性へとコミットしようとする俳句よりも、社会性にコミットされてしまう俳句のほうが、むしろ切実かもしれない。その意味では、俳句形式フェティシズムもまた、「社会性にコミットされてしまった俳句」なのだ(主題なき時代の産物)。



山口優夢・慄きに向けて」は、これまでの脈絡からすれば、みずからの初期衝動に立ち返ることで、形式と主題の問題から這い出そうとする個人的営為と解することもできる。

これをいささか古めかしく、また楽観的と読むこともできるが、悪いことではない。

俳句表現史を遡り、それを明日以降の衝動に転化できるという態度は、神話vs歴史でいえば、神話の側に属する。俳句形式という容器に、作者の資質・才能をそそぎ込めば、繰り返し、良き生産物が生まれ続ける(名句誕生)という把握は、時間が繰り返される神話的世界。一直線に未来へと延びる歴史的世界とは対照的だ。

ロラン・バルトの古典的な譬えを、いまさらのように持ち出せば(すみませんねえ)、歴史=ボクシング、神話=レスリング。読者が求めるのは、このうちレスラーかもしれない。山口優夢たるレスラー。本人が自覚するしないにかかわらず、演劇的に、形式から、ぐるぐると繰り返し生産を続けるレスラーのほうが、むしろ俳句向きかもしれぬ。俳句と神話の親和性。



他の論考も見ていく。

相子智恵・のり弁、ふたたび。」は、「再」とあるように、以前の論考「リアルということ」(『豈』47号)の続編、補足といった内容で、季語との絡みを、アニミズム短歌、川柳(樋口由紀子)の話題なども引きながら叙述。興味深いテーマだが、やや紙幅が不足の感。



北大路翼・ダメなアタクシ」は、ブログを端緒に自己露呈について叙述。北大路のブログ名「貧困と男根」は、古今東西のあらゆるタイトルのなかでもきめて秀逸(ベスト10に入る)との思いを抱く私としては、この5文字以外に、あまり語ることもないだろうといった印象で読んだ。

締めの部分、「殺された自分の作品を満足気に発表している奴らは、ブログでガキの自慢をするおにいちゃんおねえちゃんよりも「恥じらい」がないと思っている」の部分は、週刊俳句の落選展を指していると解した。

落選展をどう捉えるかは、出品者のそれぞれに大きく異なると思うが、そのひとりとして私自身には「ゾンビ」の感じがないこともない。ゾンビも「続ゾンビ」「ゾンビⅢ」となってくると、興行として、どーなのだろー?という気が個人的には若干している。

ただ、よく言われる「書くことは、恥をかくこと」は、たしかにそうで、いま書いているこれもそう。きのう句会に出した句もそう。含羞への価値の置き方は、これもまた人によって大きく違う。



佐藤文香・未だ逢わざる一句のために」は、タイトルからすると、この記事の前半に書いた俳句の可能性にまつわるとも言えるが、内容は、「わかる句」と「わからない句」についてがもっぱら。これも俳句にとっての大テーマだが、「わからない」とひとことで言われることに、いくつかの異なる内容・層があることを、腑分けして考える必要があろう。

佐藤が挙げる「洋梨とタイプライター日が昇る」(高柳克弘)に向けられる「わからなさ」の質をまず同定する作業が必要で、そこが抜けたままなので、了解性もまた、雑多な内容(意味の明快、意図の明快)を含んだままに論じることになった。

「洋梨と~」の句に、わからなさは存在しない、と私などは思ってしまう。三つの事物事象に「不明」はない。この構文にも不明瞭はない。どこがわからないのか、わからない、というやつだ。

ある句をわからないというとき、構文的に意味が解せない(省略等も含め)、経緯・顛末がわからない、趣向が見出せない(洋梨の句のわからなさはおそらくこれに該当)、どこがいいのかわからない…等、多様のはずだ。そこを分けて書く必要がやはりあると思う。

だが、それより以前に、この問題は、「関悦史・断章三つ」に引かれた松浦寿輝「わからなさについて」(『スローモーション』1987年・思潮社)にすでに、答えというのではないが、「すべてをこの『万人共感の世界』に収斂させていく等身大幻想の支配する批評言語の空間を、われわれはふつう『鑑賞』と呼んでいる」という重要な指摘がある(他の引用も、きわめて示唆深い)。



作句の技法について書く「鴇田智哉・0は無理だが」は、根源的な(それでいて俳人日常的な)テーマをめざしたものなのだろうが、やや基本・基礎にとどまって、「お茶を濁した」感。

鴇田の設定する「即物的要素」と「宣言的要素」は、乱暴に換言すれば、客観と主観であり、客観が俳句の材料であることには、多くの人がすでに同意済みだろう。

「花が咲く」という一見「即物的」と思える言辞にも、そうと判断を下したのだから「5パーセント」くらい宣言的であるという把握はおもしろく、では、それを0パーセントに近づけるには? というところが、この記事のミソ、というか鴇田智哉俳句の「秘儀」。

なのだが、出し惜しみなのか、詳述はない(当たり前か、企業秘密をそれほど簡単に明かすはずがない)。

ついでに言えば、秘儀の前提となるのが「言葉はものに即していない」という把握だが、これもソシュール以降、100年以上にわたって基礎・基本に属する事項。



関悦史・断章三つ」の二つ目のエピソードにある「なぞりなおし」=すべてはすでに書かれ、もう何も書くことがない、ピリオッドを大きく濃く書くことしか残されていない(高柳重信のアネクドートを引いて)は、この記事の前半に書いた話題(俳句形式フェティシズム)の「締め」とする読み方もできる。

一度、読むと、てんで気ままに、バラバラに散在すると見えた、これらの記事が、もう一度読むと、どこかでつながっている気もする。

流派という縦のベクトルでなく、同世代という横のベクトルのおもしろさだろう。その場を、「俳句の新鋭に空間を開放してきた」(同誌同号あとがき)『俳句空間-豈』の大きな功績である。



この特集の掉尾は「高山れおな・評論詩〈俳句未来人スボタ経〉」。

詩も評論詩もあまり読んだことがない私は、これについて何も書くべきではないのかもしれない(バロック音楽を、あるいはメンフィス・ソウルをほとんど聴いたことのない人間が、バッハのパルティータがどうだ、アル・グリーンは最高だの、言っても、しかたないでしょう?)が、今回の特集の良い意味の「まぜっかえし」と解した。

「俳句の未来人」という命名に備わる「ちょっとどーなの?」感(これはしかし雑誌編集上、アリなのだ)をうまくまぜっかえして、特集全体のトータル感、収斂(そんなものはたいていウソで、編集部の狭隘な意図・目論みに過ぎないことが多い)を避けた感。



というわけで、おもしろい特集でした。興味を持たれた方は、ウェブの「豈 weekly」に問い合わせれば、購入等の入手法がわかると思います。



(*1)田島健一氏はこの特集に「同じ起点」を見出す。

UNI掲示板・2009/12/06(Sun) 01:43:17のログ「豈49号を読む」
http://www4.rocketbbs.com/141/uniuni.html
この「同じ起点」というのが何かと言うと、
相子さんが「リアル」と呼び、
北大路さんが「態度」と呼び、
神野さんが「主題」と呼び、
佐藤さんが「未だ逢わざる」と呼び、
外山さんが「フェティシズム」と結論づけ、
山口さんに「慄き」を与えているもの。

これは、ちょっと深刻かも知れない。/この流れが俳句の底に広がっていて、何か世慣れたひとびとに利用されるのじゃないか、と心配になります。/つまり、こういう流れによって横のつながりが強化されてしまって、俳句のもつ良い意味での多様性に悪い影響を与えないか、ということです。(なんて、深刻ぶったりして…)
リアル、態度、主題、未だ逢わざる、フェティシズム、慄き。こうかいつまむと、私などには、俳句的話題の全体をバランスよく網羅したかにょうに思えてきて、田島氏の「深刻」な「心配」にいまひとつピンと来ない。同掲示板に、内容追加があるかもしれないので、それを待つことにする。

追記(2009-12-7)
田島氏の追っての記事↓
豈49号特集「俳句の未来人は」を読む ~相対性俳句論(断片):たじま屋のぶろぐ

2 comments:

北大路翼 さんのコメント...

天気様

ご無沙汰してます。
いきなりですが、拙文の一説は落選展の批判ではありませんよ。むしろ落選展は堂堂としていて好意的に見ております。
「殺された自分の作品」とは、たとえば従来の俳句的情緒のようなある種の束縛により、自分本来の主張・思いを第一義としない作品という意味です。
週刊俳句を批判するときはもっとストレートにやりますよ(笑)

tenki さんのコメント...

あ、とんでもない誤読、というわけですか。
申し訳ありません。

指摘していただいてよかったです。

こんなことがあるので、皆さん、講読して、原本にあたったほうがよいです(と、宣伝)。