2010-10-03

週刊俳句時評 第12回 御中虫のゆくえ

週刊俳句時評第12回 
御中虫のゆくえ

山口優夢


「俳壇」および「角川俳句」の10月号に、御中虫氏の作品が掲載されている。

御中氏は、第3回芝不器男俳句新人賞受賞者(第3回芝不器男賞の選考会については、こちらこちらを参照のこと)。定型や季語にとらわれない、勢いのある文体に乗せられた激しい感情が、読む側にダイレクトに伝わってくるところが魅力的な作家と言えようか。

せいぜい着飾ることだ誰も見てをらん
机を叩く机を蹴る私は蚊ぢやない


これら二句は、芝不器男賞受賞作中のもの。口語を使った文体というと、すぐに坪内稔典や池田澄子なんかが思い浮かぶところだが、彼らの口語は呟きだったり、呼びかけだったりするのであって、このように生身の感情を吐き捨てるような文体を持っているのは、あまり例がないのではないか。あるいは、吐き捨てる、という行為が、きちんと詩的な文体を獲得している例が少ない、とも言えるかもしれない。

「せいぜい着飾ることだ」から「誰も見てをらん」へ接続する展開、「机を叩く机を蹴る」から「私は蚊ぢやない」へ接続する展開。これらは、ただ吐き捨てているように見えて、じつはきちんと作品として読まれることへの配慮がなされているために、詩の文体を獲得していると言えよう。それぞれ「着飾ることだ」、「机を蹴る」のあとには、切れに相当するようなものが存在しているのだ。

個人的な好みで言えば、「私は蚊ぢやない」というまるで泣き叫ぶようなあからさまな反発よりも、「誰も見てをらん」という精一杯の皮肉の方が、涙を必死でこらえて拳を振るわせているような辛さを感じさせて、思いが深いように思える。いずれにしても、このような何らかの強い感情をベースにした作品が、彼女の百句の基調をなしている。

その中でも、そういう自分の抱えている哀しみや淋しさが他の生物や事物と交感し合うことがあって、そういったものが彼女の百句の中ではもっとも素晴らしいものだと僕は思っている。

じきに死ぬくらげをどりながら上陸
虹映る刃物振り振り飯の支度


クラゲが踊り狂いながら上陸してくる。猛々しい生命力が横溢しているように見えるが、実はそれは死の直前にもがき苦しんでいる姿だ。彼女は目を凝らしてそんなクラゲの様子を何も言わずに見つめている。あるいは、虹の映る刃物という幻想的な美しいものを持って飯の支度をしている彼女は、「振り振り」という措辞からも分かる通り明らかに高揚しているが、しかし、「虹映る刃物」にはどこか正気ではない何かの感情が仮託されているような気がする。その異常さに気がつかずに単に気分が高揚しているところが、何と言うかとてもあぶない。こわい。

生の感情が何かに乗り移って噴出するとき、彼女の俳句は、世界の実相に触れてしまう。それは生き物の声にならない叫びだったり、純粋な狂気だったりするのだ。

そういう印象を抱いていたので、正直に言って俳壇10月号の掲載作品は不満があった。

台無しだ行く手を阻む巨大なこのくそいまいましい季語とか

中ではこれが最も目についたものではあった。実はこのように俳句そのものに言及するような句は、角川俳句10月号掲載作品の中にもある。

季語は秋。ねえ、俳句って何ですか?

しかし、これらの作品は、芝不器男賞受賞時の以下の作品を越えられているとは言い難い。

歳時記は要らない目も手もなしで書け
季語がない夜空を埋める雲だった


今挙げたこれら四句のどの句にも共通するのは、季語というものに縛られている(ように見える)俳句へのいら立ち、といったところだろうか。「台無しだ」や「季語は秋。」の句では、彼女が季語というものに対していら立ちを覚えていることは読みとることができるが、それがなぜかは分からない。そのため、そのいら立ちはかなり浅いところでしかこちらの胸に入ってこない。

「歳時記は」の句は、「歳時記は要らない」にとどまらず、「目も手も無しで書け」とまで言った迫力がすさまじい。ある意味、俳人にとっては歳時記というのは目や手に相当するものと言っていいのかもしれない。彼女がこの句で提示してみせた「書く」ということの意味は、目や手を使って(まして季語などという皆に共通の感慨を押し付けるシステムに頼って)外部の情報を入れることではなく、自分の中から噴き出すものを形にすることなのだろう。彼女は自分というものに真正面で向き合おうとしている。ことここに至って、「季語」という言葉に対して「巨大なこのくそいまいましい」という形容をつけた意味が、ようやく分かってくる。季語というのは自分の感情を「共感」という共通の枠組みの中に回収してしまう装置であり、その言葉の通り良さの前では、彼女自身の言葉はちっぽけなものだ。その認識があってこそ、このような句が生れるのであろう。

あるいは、「季語のない」の句、季語というものを探さなくても、世界はこんなにも言葉にすべきことに満ちているではないか、と言っているように僕には聞こえる。実はこの二句で、彼女の、少なくとも現在における季語観、俳句観というものは十分表出されているのであり、その方面での新たな展開は今のところ見ることが出来ない。こういう方向で句を作っている作家を今まで見たことはなかったため、新たな展開がないことについては少々残念に思った。

その代わり、「角川俳句」10月号掲載作品の中で「これはすごい」と思ったのが次の作品。

おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ   「何度」に「なんぼ」とルビ

彼女の句は写生ではない。もとより、この句は何かの状況を描いているわけではない。やはり根底にあるのは世間一般の倫理観に対する不信感とかいら立ちのようなものだろうか。これはかなり直接的な文体で書かれており、作品としての深さがあるかどうかというと、多分ないのだが、ここまで気取らない突き放したような口語表現が時代に牙をむくのは、見ていてなんだか妙に清々しい気分にさえなってしまう。

彼女の俳句はガラスの破片のようだ。それを握りしめ、彼女は切っ先を読者に向けている。破片そのものよりも、破片に反射する光の鋭さに、読者はくらくらと眩暈を起こしてしまう。そして破片は、他の誰でもない、彼女自身を、真っ先に傷つけているのかもしれない。

もう季語なんかに拘ったりしなくていいから、もっと、「車椅子」の句のような形で生きることの根源に突き当たってしまう辛さに向き合った句を、僕は応援したいと思う。


4 comments:

ロケツ さんのコメント...

優夢さま

「御中虫のゆくえ」についてをtogatterにまとめました。
http://togetter.com/li/56023
優夢さんに聞こえないところでつぶやくのは陰口みたいになってしまうと思い、コメントさせていただきました。

山口優夢 さんのコメント...

ロケツさま

コメントをどうもありがとうございました。ツイッター、大変興味深く拝読させていただきました。

御中氏の句を、「不幸のないことが不幸な世代の不幸が無い俳句」に対するアンチテーゼとしてとらえるということは、御中氏の句が不幸を背負った句だとおっしゃっているのだと思うのですが、その上でそれを「痛快」と思うかどうかは個人の主観によるものなので、僕からはなんともコメントしようがありません。少なくとも僕はあまりそうは思いませんが。

「虫俳句が詠んでいるのはごく個人的な状況に対するいら立ちであって季語や俳句形式そのもに対するそれとはややニュアンスが違う」というご指摘、ありがとうございます。僕は、自分の個人的な感情を俳句に十全に反映するためには季語というものが余計で、邪魔ですらある、という状況に対するいら立ちを彼女の俳句(のうちのある一部)に感じます。それは、単純に「個人的な状況」に対するいら立ちか「季語や俳句形式そのもの」に対するものなのか、と区分けできるものでもないのではないでしょうか。

気づかぬうちに上から目線になって文章を書いてしまうことがあるので、ご指摘いただいて本当にありがたく思います。僕自身は全くそんなつもりはなくても、そう受け取られることがあるということ、肝に銘じておきます。

どうもありがとうございました。

山口優夢

御中虫 さんのコメント...

山口優夢 様

 初めまして。御中虫です。上記の記事、大変面白く拝読いたしました。私のブログにも引用させて頂きました。

http://d.hatena.ne.jp/hirunemushi/20101003

 またお会いできることを楽しみにしています。

              御中虫 拝

山口優夢 さんのコメント...

御中虫さま

コメントをどうもありがとうございます。ブログでも触れていただいて、大変嬉しく思いました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

山口優夢