2011-03-06

【週刊俳句時評 第26回】神野紗希

【週刊俳句時評 第26回】
なう

神野紗希

1.

火曜日、先輩俳人Mさん宅にうかがったとき、次のようなやりとりがあった。


Mさん「〈パネエ〉って、どういう意味?」

同行Y氏「えっと、若者言葉で、凄いっていうニュアンスです。スラングです」

私「そうです。半端じゃない、はんぱない、はんぱねえ、パネエ、ってことです。活用形です」

Mさん「なるほどー、じゃあ〈マジやべえ〉と一緒?」

私・同行Y氏「そんなかんじです!!」


〈パネエ〉の説明から〈マジやべえ〉を連想するMさんの柔軟さに感動しつつ、ああ、〈パネエ〉は俗語だったな、と思う。

2.

焼そばのソースが濃くて花火なう    越智友亮(「傘」vol.1)

花火の夜、花火を見に行った先で、屋台の焼きそばを買って食べているのだろう。河川敷だろうか。「屋台で買う焼きそばは、なんで美味しいんだろうね」なんて言いながら、ぱくぱく食べる。「焼そばのソースが濃い」なんて些細なことも、花火の夜には、とにかく楽しい。

きっと、イカ焼きとか、発泡酒なんかも手許にある。すぐ隣にも、前にも、他の似たようなグループが、にぎやかに花火を楽しんでいる。メンバーのひとりが、さっきから携帯電話を触っている。twitterに「花火なう」と書きこんでいるのだ。その「花火なう」のtweetを見た、携帯電話やパソコンの画面の向こうの全ての人が、今日、どこかで花火大会があるんだ、ということを知る。

主体にとっての「今、ここ」の花火大会のリアル感(たとえば「焼そばのソースが濃い」という事実)と、「花火なう」が拡散していった先の、たくさんの人(twitterを見ている人たち)の「今、ここ」。それをつなぐ、ゆるやかなインターネット空間と、花火が次々ひらく眼前の大きな夜空。それぞれ別の人で、別のものなのだけれど、おんなじこの世界に、すべてがそれぞれとして、重なりつつ存在している。それが楽しいし、嬉しい。

〈パネエ〉の話をして、この〈なう〉句を思い出した。

3.

俳誌「鷹」2011年2月号で、永島靖子氏が掲句について言及している。

この作者は平成三年生まれ。一昨年末刊行され本欄でも紹介した『新撰21』収載作家の中で一番若い。ごく日常的な平易な句に見えるが「花火なう」とは何だろう。『新撰21』に同じ作者の「夕爾忌の花火が夜に触れている」があるから、ここは「花火の夜」と平凡に置いても構わない所なのか。そのようなことを考えているうちに、この「なう」が昨年末選ばれた新語・流行語賞の一つであることを新聞紙上で見つけた。ツイッタ―用語で今いる場所やしていることを伝えるときの語尾に付けるのだという。英語のNOWの転用とでも言うか。掲句は、花火を見ながら焼そばを食べているというのだろう。それにしても、ここまで進んでいるケータイ用語の記号化、簡略化は今後否応なく俳句の世界に侵入してくるだろう。とすれば、新語への寛容の限度を考えざるを得まい(注)。
(「俳句時評 電車の中で――俳句の変容」)

仮に、この句を、永島氏が言うように「花火の夜」としたらどうだろうか。

焼そばのソースが濃くて花火なう
〈改作例〉焼そばのソースが濃くて花火の夜

「なう」を削ってしまうと、俄然、つまらない句になる。花火の夜に、今ここにいる自分しか書き出せないからだ。「なう」という一語を入れることで、「今、ここ」の花火大会のリアル感に加えて、「花火なう」のtweetが拡散していった先の、たくさんの人の「今、ここ」が現れる。それから、花火大会で携帯電話をいじりながら「なう」と呟く作者は、若者の確率が高い。箸が転げても笑えるような年齢だから、焼そばのソースが濃いなんてことも、楽しめる。「なう」という新しい用語も、屈託なく使える。そんな作者情報も、この「なう」から読みとれる。

加えて、関悦史氏が、自身のブログ「閑中俳句日記(別館)」で、この「なう」句と永島靖子氏の時評に言及している中で挙げられているような意味も生まれるだろう。

「花火」「焼そば」といった緩くめでたい祝祭感を呼び覚ます題材が選ばれているのは偶然ではない。花火を見ても焼そばを食べてもそれを即座にツイートで友人知人たちと共有できる祝祭感と同時性を、力の抜けた姿のまま句に定着させているのが「なう」なのだ。 新語の使用をも現代のリアルとして理解に務めようとする永島氏の姿勢は真っ当で好ましいが、にもかかわらずその大上段に構えた検証の姿勢と越智句の緩いめでたさの間には何ともいえない齟齬感が漂う。そしてこの齟齬感が、俳句の現在の一局面を象徴しているようでもある。 越智句自体は流行語とともに流れ去ってしまう可能性もあるが、それは作者も承知の上だろう。しかしこの句は流行語を取り入れること自体や、花火大会の写生が眼目なのではなく、時代とテクノロジーの変化による生活感覚の変容を、緩さは緩さのままに体験的に詠み込んだことが手柄なので、そこに日が当たれば、逆に21世紀初頭の暮らしの変化を内面(または内面の希薄化・拡散)から記録したこの句によってのみ、流行語「なう」が記憶されるといったことにもなるのかもしれない。
「閑中俳句日記(別館)」内「鷹2011年2月号」記事

ここでは、「力の抜けた」「緩いめでたさ」「緩さは緩さのままに」と繰りかえされているが、これは、越智句の特徴かもしれない。

一般の人の中には、「なう」という流行語や最新のメディアtwitterに対する冷ややかな視線を持った人が、少なからずいるはずだが、そうした空気はいったん棚上げして、嬉々として「なう」を使う「僕」を見せることで、その外側を感じさせるところも、句の魅力だ。屈託のない「僕」が、逆に現代を照射する。越智の句には、いくつかそういう句があって、私はその断片に徹する姿勢が好きだ。

〈なう〉の一語に込められた意味は大きい。


4.

この〈なう〉句が問いかけている問題は2つある。

1つは、俳句の普遍性だ。「なう」という語の賞味期限の問題でもある。「なう」という流行語がすたれてしまったら、この句は読めなくなってしまう。普遍性をもたない俳句は、いい俳句とはいえないのではないか。

しかし現在、古俳諧の句は、注釈がないと読めないものも多い。もちろん芭蕉の古池の句をはじめとした、人口に膾炙されている句は、現在でも句意が取りやすい。そういう点で、越智の「なう」句も、名句にはならないかもしれない。けれど、芭蕉が一方で、謡曲の一節を取り入れて「あら何ともなやきのふは過てふくと汁」と詠んだ句が、芭蕉の代表句としては語られないが、そんな句も作っているということが芭蕉の幅の広さを証明するように、この「なう」句の挑戦が、のちのち、越智友亮という俳人の幅の広さを語るひとつの例として挙げられる可能性は、大いにある。

〈なう〉句の問いかけるもうひとつの問題は、1句の想定読者は誰か、ということだ。我々が俳句を作るとき、誰に読んでほしいと思って作っているのか。「なう」というはやり言葉を使うことで、その言葉を知らない人は、とりあえず、読者の範疇からゆるやかに外されることになる。

ゆるやかに、といったのは、たとえば永島氏が「なう」句を読んだあとで「なう」の意味を知ることがあるように、この句を読んでから「なう」とはなんだろう、と遡って「なう」の意味を調べる人もある、という点で、「なう」の範疇外から範疇内に入ってくる人がいるかもしれない、という可能性があるから。しかし、「なう」のあの本当の語感は、やはり日常使っている人、もしくは目にしている人にしか分からない、のかもしれない。
 
でも、私は、それでもいいじゃないか、と思っている。
現在つくられている一般的な俳句も、読む際には、季語や文語の知識を必要としている。文語で読み書きをした世代、季語を体験した世代、季語を愛する人々、それぞれに愛される俳句があるように、若者が読む俳句があってもいい。

(了)

注:永島氏は、掲句に関するくだりを「メール世代の俳句を冷静に見守り、その行方を見つめるにやぶさかではない」とはじめ、「日本語の姿かたちを正す真の有識者が欲しい。ただし、それは強権的であってはならない。強権の下に屈するよりは野放図な言葉の自由を選ぶ」と締める。決して「〈なう〉という言葉は使うな」とは言っていない。

8 comments:

三島ゆかり さんのコメント...

ロボットをメンテしていて思ったのですが、「なう」というのは俳句に取り込もうとすると、「かな」と互換性があります。

焼そばのソースが濃くて花火なう
      ↓↑
焼そばのソースが濃くて花火かな

良雄 さんのコメント...

屋台の濃い味の焼きそばなんて食べたくもないけど。
神野さんの論評を読んでいるといい句だなあぁ~と思えてくる。
この句の命は「なう」だから、「かな」では、やはり広がりに欠けるでしょうね。

猫髭 さんのコメント...

「なう」の句で思い出したのは、

  龍天に我ら後楽園にNOW 池田澄子

という去年の四月の「週俳」三周年記念オフ会での即興句です。へえ、澄子さんがツイッター句を詠むのかと面白く思ったのを思い出しました。

四ッ谷 龍 さんのコメント...

「なう」という語がどうこう、という局所論になっていますが、それ以前に、「花火」と「焼そば」ではベタ付きで、詩になっていないのではないですか。

発想に飛躍のないものは詩ではない。
詩がないものは俳句ではない。

越智さんにはほかに面白い句はいくらでもありますが、この句のよさは私にはわかりません。

俳句に使ってはいけないことばなど、ありません。要するにできた句が人を納得させるかどうか、それがすべてだと思います。

良雄 さんのコメント...

僕自身は濃い味のというか、
焼きそば自体あまり好きではないけど。
この句の面白味のひとつは、
焼きそばが濃い味で若者を表していること。
しかも男女のグループ。
一人ではない。
若者たちが焼きそばに喰いいっている時に、
花火が上がる。
かなり大玉の花火だろう。
濃い味の焼きそばから関心が花火へ移行する。
そこで「なう」が効いてくる。
極めて面白い句(詩)だと思うけどなあぁ~。

千代 さんのコメント...

>三島ゆかりさんの「なう」「かな」互換性のはなし

どっちも短文におけるアクセント。
俳諧が出来た頃って「かな」はどういう立場だったのだろう?
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/43372/m0u/

sugiyama さんのコメント...

ここでは「なう」について話しをしているのだから、"「花火」と「焼そば」ではベタ付き"云々は関係ないのでは? 越智友亮論を展開しているのならば"「花火」と「焼そば」ではベタ付き"云々言うのもありでしょうけど。

四ッ谷 龍 さんのコメント...

Sugiyama 様

 コメントありがとうございます。
 越智友亮論を展開するつもりはありませんが、
  焼そばのソースが濃くて花火なう
はつまらない俳句なので、つまらない句の
一部の語彙の適否を言っても意味がないと
考えました。
 「なう」を使った俳句としては、御中虫さんの
  葬式なう弔辞なうなう火葬なう
はなかなか鋭い句だと思っています。