2011-08-28

渋川京子『レモンの種』を読む

〔句集を読む〕
渋川京子『レモンの種』を読む

三島ゆかり

『豆の木』第14号(2010年4月)より転載


渋川京子『レモンの種』(ふらんす堂 2009年)は、40年近い俳歴を持つ著者の満を持した処女句集である。

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 いちにちの赤きところに滝の音
 潮うごく前のしずけさ桃にあり
 鳥渡る風にいくつも覗き穴


これらの句は、俳句以外の表現では代替不能で、散文にパラフレーズすることは不可能だし無意味である。それなのに、ずっと昔から「いちにちの赤きところに滝の音」がすることを知っていたような感じが確かにするし、「潮うごく前のしずけさ」が桃にあったような気がするし、「風にいくつも覗き穴」があったような既視感がある。誰にでもある、人のこころのある局面を、まさに「覗き穴」から客観写生のクールさで言い止めたような静謐な味わいがある。
「いちにちの赤きところ」にありつつ「滝の音」を聴きとめる姿勢は、句集全体(あるいは渋川京子の俳句的生き方)を貫いていて揺るぎない。

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 鳴り止まぬ耳から蝶をつまみ出す
 末黒野やつかわぬ方の脳が鳴る

「鳴り止まぬ耳」は自覚的な身体感覚にまつわる比喩として読めるが、「つかわぬ方の脳」という把握はどうだろう。野焼きに呼応して、ヒトの古い部分がなにやら呼び覚まされているような感じがして、なんとも楽しいではないか。

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 一枚の葉書の広さ秋の夜
 間取図に足す月光の出入り口
 秋風鈴夜は大きな袋なり


いずれも空間把握の句であるが、二句目の風狂な味わいはどうだろう。前述の「覗き穴」のように、空間が空間として完結してなく、どこか途方もないところへつながっている。三句目の「夜は大きな袋なり」の大きさも計り知れない。
 
 はればれと布団の中は流れおり
 仏壇のなかは吹き抜け鳥帰る

単なるレトリックではなく、そういう得体の知れぬ空間を実際に感じ続けて、俳句に置き換える作業を続けてきたのが渋川京子であるに違いない。

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渋川京子は水でできている。すくなくとも作句に向かう意識の中では、そのように自覚されている。そして、その水はときにエロスを湛え、ときにかなしみを湛えている。あるいはエロスとかなしみは渋川京子にとって同義である。

 海鳴りをこぼしつつ解く夏の帯
 夏帯のなかひろびろと波の道
 水中花一糸まといて咲きいたり

 氷柱よりきれいに正座し給えり


氷柱の句の、引き締まった美へのあこがれはどうだろう。「給えり」と尊敬の助動詞で詠まれた架空の対象は、他者のようでいて渋川京子の美意識に他ならない。ちなみにこの句の初出形は「氷柱よりきれいに母の正座かな」だったとのことである。具体的な「母」を消して「し給えり」と結んだ推敲により格段に純度が増している。

そして、渋川京子は水に包まれている。見えない水を感じて溺れ、闇を水のように湛えている。

 水際の匂いこもれる菊枕
 まっさきに睫が溺れ蛍狩
 見えぬ手を濡らしたっぷり昼寝する

 緑陰を抜けて両袖水浸し

 雛飾り川の満ち引き映る家

 船着場まで陽炎にもたれゆく

 水吸って人の匂いの苔の花

 霧深し自分を寝押しするとせん

 紫蘇をもむ満々と夜が湛えられ


かたちを変えつつ確かに存在する見えない水に包まれるとき、渋川京子はこの世にしてこの世ならざるところに身を置いている。いっけんただの客観写生に過ぎない雛飾りの句や船着場の句でさえ、句集全体の中に配置されるとき、妖しげな気配を放ち出す。

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 良夜かな独りになりに夫が逝く
 なかんずく白菊に堪え死者の顔
 死にゆくに大きな耳の要る二月

 死者もまた旅の途中か春の蝉

 出棺のあとさきに滝現われる


歳を重ねて生きることは、伴侶、肉親、親しかった人々の死と直面し、それを受け入れて行くことに他ならない。「良夜かな」の句以外は、どなたが亡くなったのかは明示されていない。その「良夜かな」の句にしても、「独りになりに夫が逝く」の揺るぎない措辞によって、もはや渋川京子のパーソナルな体験以上のところへ昇華されている。
死を直接詠んだ句においても、滝が現れる。この滝は「いちにちの赤きところ」で鳴っている滝であり、この世とこの世ならざるところの接点で聞こえるかなしみの声に他ならない。渋川京子にとって、生きて行くことは、その声を伝えることなのである。

 われら紅葉夫あるなしにかかわらず

老境に生きる喜びとかなしみを詠んだこの句が、しずかに私の胸を打つ。
 
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 さくら餅たちまち人に戻りけり   渋川京子

いろいろな読みはできると思うが、「たちまち人に戻」る前は、どこか途方もないところへつながっていたのであり、この世ならざるかなしみの声に耳を傾けていたのだと感じる。さくら餅というささやかな、ある世代以降にはおそらく理解不能になりつつある和菓子が、この世に戻ってくる契機であることがなんとも嬉しい。人生にはまだ、ささやかながら喜びがいくらでもある。そんな希望がこの句からは感じられる。

まだまだご紹介したい句は多々あるが、この辺で筆を置く。取り上げなかった句については、ぜひ直接『レモンの種』(ふらんす堂)をお手にとって味わって頂きたい。


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