八田木枯 戦中戦後私史第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫
≫承前:第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊
『晩紅』第21号(2004年3月31日)より転載
連作「ミヤコホテル」
木枯 話がまた戦前に戻ってしまいますが、先日、「俳句研究と私」という原稿依頼があって、それがきっかけで思い出したことをお話ししたいと思います。
昭和十四年、当時十四歳の私は、父の残した蔵書、大正時代の「ホトトギス」合本や文学全集に触発されて、俳句を熱心に作り始めていました。そのうちに父の蔵書以外の物も読みたくなって、毎日のように古本屋を回り、三十分、一時間と立ち読みするようになりました。
――新刊の本屋さんはなかったのですか。
木枯 二軒ほどありましたが、句集や俳句雑誌は置いてないのです。古本屋の方は、文芸物を扱っている店が三軒ほどあり、そこに行けば、店先に俳句や短歌の雑誌がうずたかく積んであります。「ホトトギス」「アララギ」が目立って多かったのですが、あるとき昭和九年四月号(創刊二号)の「俳句研究」を見つけました。日野草城の「ミヤコホテル」が発表された号です。ご存じのように新婚初夜をテーマにした連作十句ですね。
――あの連作は、実体験のように見えますが、実際は場所も内容も虚構だとされていますね。
木枯 ええ。でも、そんなことは知りませんから。それまで読んでいた俳句とあまりにも違うので、こんなことが俳句になるのか、と吃驚しました。もっとも、内容については半分も分からなかったのかもしれませんが。
「失ひしものを憶(おも)へり花曇」なんて読んでも、財布でもどこかでなくしたのかと思うくらいでしたから。
――ああ、少年としては、意味が分からない
木枯 そのころ分かっていたら、たいへんなことですよ(笑)。もちろん、「俳句研究」にかぎらず、ほかの雑誌や句集もとても新鮮で興味深く思えて、読みふけったものです。まだ自由になるお金などありませんから、欲しいと思っても簡単には買えません。読みかけの所に栞をはさんで、積んである山の下の方に戻しておいて、翌日また出かけるのです。
――人目に触れて売れてしまわないようにですか。
木枯 そうです。そうやって立ち読みを続けていたんですが、中にはどうしても手元に置きたいものが出てくるんですね。そうこうしているうちに、うまい方法を見つけました。
古新聞を売るのです。実家では、そのころ大毎(大阪毎日新聞)、大朝(大阪朝日新聞)や地元紙を講読していたのですが、そのころの新聞は、いまのと比べて一部がずっと分厚く、かさばるので、納屋に積み上げてあったのです。その古新聞を一抱えずつこっそり持ち出しては、屑屋に売ってお金を作ったんです。
そのお金で、「俳句研究」もそうですが、ほかにも中村草田男『長子』(昭和十一年)、山口誓子『凍港』(昭和七年)などを手に入れました。これらは運よく戦災を免れて、いまも手許にあります。
新興俳句にも惹かれながら
木枯 「俳句研究」よりすこし後のことですが、別の古本屋で「旗艦」を見つけました。
――草城の雑誌だということは、ご存じだったのですね。
木枯 ええ。やはり、三日にあげず立ち読みに通っていて、おもしろいと思って、とうとう買うことにしたんです。すると、古本屋のおやじが「君のような少年は、こういう危険なものを読まない方がいいよ」と言うんです。もっとも「危険なもの」ほど魅力的でしたから、結局手に入れたのです。
――そうですか。すると、もし、危険視されている時代じゃなかったら、「旗艦」に入ろうとか、投句しようなどと思ったかもしれませんね。
木枯 いやいや、そういうことはまったく頭にありませんでした。「旗艦」は、たしか二冊ぐらいは買ったと思いますが、とにかく二年も三年も前の号でしたからね。
実はそれからしばらくして、その古本屋から連絡があって、草城の『転轍手』(昭和十三年)が手に入ったから、買わないかと言ってきたのです。あれほど「危険だから読むな」よ忠告していたのに…。
――お買いになったのですか。
木枯 買いました。高かったので、お金を作るのがたいへんだったことを覚えています。
――ほかには、どんな俳人に興味を抱いていらしたのですか。石田波郷はどうでしたか。
木枯 波郷や加藤楸邨は、まだ知りませんでした。ホトトギス中心でしたので、ほかには松本たかしとか、川端茅舎ですね。
ただ、たしか昭和十五年ごろだと思うのですが、やはり古本屋で『現代俳句』という四巻本を手に入れました。その中に新興俳句なども入っていましたので、誓子、草城、渡辺白泉、西東三鬼、篠原鳳作などにも憧れたり、興味を持ったりしていましたね。
――おもしろいですね。当時はホトトギスの全盛時代だったし、木枯先生も当然、ホトトギスで俳句を始められたのに、総合誌などで新興俳句にも触れて、つよく惹かれるものを同時に宿していた。なにか将来の八田木枯を暗示するような素地が最初からあったのですね。
木枯 そうかもしれませんね。昭和十四年ごろにホトトギスに入り、一年ほどで初入選を果たしたのですが、それ以来、「ホトトギス」やその系列雑誌に投句しつづけてきました。ホトトギスから離れるのは、戦後の昭和二十一年ごろですね。思い返してみると、その最初のきっかけが「ミヤコホテル」だったんです。
――大きな影響を与えたのですね。しかも、それが発行された直後ではなくて、五年も経ってから古雑誌として少年の眼に触れて、俳句人生に大きな影響を与えるというのは、作品の力でもあるのでしょうが、とても興味深いことです。
木枯 ご存じのように、「ミヤコホテル」は、発表直後、いろいろと物議を醸しました。草田男が厚顔無恥な作品だと非難し、一方、室生犀星が「俳句でこんな新しいことが詠めるのは素晴らしい」と絶賛したりして、有名な論争にもなりました。でも考えてみると、私が読んだときには、そんな論争も全部終わっていたんですね。
俳句少年、そして映画少年
――古本屋以外では、どんなものに関心も持っていらしたのですか。
木枯 映画ですね。当時、津には映画専門の常設館が三つ、ほかに芝居小屋がありました。
――最初にご覧になったのは、どんな映画でしたか。
木枯 弁士つきの無声映画ですね。
――ええっ、本当ですか。
木枯 そうですよ。大河内伝次郎、板東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門なんかが主演した無声映画時代の日活時代劇を子供のころよく見ました。舞台と客席の間にミュージックボックスというのがあって、そこにピアノ、太鼓、三味線などの楽士が五、六人が入って映画の場面に合わせて音楽を演奏するんです。
弁士は、もちろん舞台の上で、スクリーンを見ながらストーリーや登場人物のせりふを語るわけです。ときには「花のパリかロンドンか、月が消えたか、ホトトギス」なんて、よく訳の分からないこともしゃべったりもするんですが、とにかく実に哀調を帯びた名調子で聞かせるんですね。
――入場料はいくらぐらいだったのですか。
木枯 大人十銭、子供五銭だったと思います。うどん一杯が六銭か七銭のころですね。
――どのくらいの頻度でご覧になっていらしたのですか。
木枯 それはあまり言いたくないんですが…(笑)、とにかく映画は好きでしたね。京都山科の一燈園にいたときも、よく抜け出しては電車に乗って新京極まで映画を見に行きました。その当時、封切館があったのは、東京、大阪、名古屋、京都、福岡ぐらいでしたから、新京極へ行けば、最新の映画が見られたんです。
――ご覧になったのは、どんな映画でしたか。
木枯 松竹映画の「純情二重奏」、高峰三枝子の主演の歌謡映画ですね。たしか昭和十四年で、有名な「愛染かつら」は、その前年です。あのころ何といってもきれいだったのは、高峰三枝子、そして高杉早苗でしたね。男優では、松竹現代劇の三羽烏と言われた上原謙、佐分利信、佐野周二がいました。上原は加山雄三の父、佐野は関口宏の父ですね。時代劇は、無声映画から引き続いて日活が全盛期で、さっき話したように役者が揃っていましたし、山中貞夫はじめいい監督が多くいました。
――洋画はどうでしたか。
木枯 フランス映画の「舞踏会の手帖」や「パリ祭」なんかを見ましたが、洋画はそんなに多く見ていません。チャップリンなんかの喜劇映画はともかく、しゃれたフランス映画の上映館は、東京でも銀座に二軒とか新宿に一軒ぐらいしかなかったんですから。
肺浸潤を患って休学して、海軍病院に入院していたことは、前にお話ししましたが、そこからちょこちょこ抜け出しては、東京へ行っていました。そんなときに見たくらいですね。洋画をよく見るようになるのは、戦後、アメリカのハリウッド映画がどっと入ってきてからです。
――長く休学したのですか。
木枯 長かったですね。結局、中学を中退しました。
――ずいぶん病弱だったのですね。
木枯 そりゃ、病弱ですよ。煙草はばんばん吸っていましたが…(笑)。
――十四歳の頃の木枯先生は、俳句少年で映画少年で…しかも不良少年だったのですね(笑)。
木枯 家業の材木屋を継いだ兄は真面目な人間でしたが、それでもやはり映画が大好きでしてね。戦後になって、「映画三重」という映画雑誌まで出したんですよ。
――映画雑誌! 戦後というと、木枯先生が「ウキグサ」を活版で発行したころですね。
木枯 ええ、終戦から一年くらいしてからです。創刊号の表紙がローレン・バコールの写真、いまで言えば、著作権無視です。映画好きが何人か集まって、記事を書いたりしたのですが、兄も津村信夫の映画評論などが好きで愛読していましたから…。新しく封切られた映画の紹介とか、やはり洋画が中心でした。かなりの部数を印刷して、津の映画館とか本屋なんかに置いてもらったんですね。
最高峰の作品を吸収して
木枯 「ウキグサ」の昭和二十二年十二月号(通巻二十一号)が出てきたので、持ってきました。見るとおりの薄い雑誌ですが、当時は印刷所も少ないし、紙もない、活字もないという時代で、「ホトトギス」でも同じように薄かったのです。
――すごいですね。拝見すると、木枯先生は、編集発行人で、選句欄を持ち、評論を書き、座談会までやっておられるのですね。それに表紙を開けると、いきなり「思量」二十句(別掲参照)が掲載されています。
木枯 昭和二十二年くらいになると、私の句もちょっと違ってきてますでしょう。終戦から「天狼」まで三年間。だんだんホトトギス調から離れていくわけですけれども、それでも最初は、なかなか断ち切れなかったんですよ。
――いままでのホトトギス調の句、たとえば「宇陀百句」の頃とは、まったく違っています。〈白壁やとべば小鳥は空の中〉なんていいですね。
木枯 ああ、それは、草田男が「万緑」で取り上げて、誉めてくれた句です。
――この句には、現在の木枯先生と通じる世界があります。でも、どこかいまとは違う青春性も感じられますね。〈靴が痛き秋日の中の別れかな〉にも若々しさがありますね。
木枯 若いですね。
――〈教師病む塩辛蜻蛉干竿に〉、これは人間探求派のような、それこそ草田男が喜びそうな句ですね。
木枯 ええ。この句でお分かりでしょうが、私が戦後に傾倒していた作家の一人は、もちろん草田男です。そのほかでは、強い影響を受けたのは、誓子、楸邨、波郷ですね。
――たしかに、楸邨風の句もありますね。
木枯 そうでしょう。楸邨の戦中から戦後にかけての句を収めた句集『野哭』(昭和二十三年)につよく惹かれていましたから。それと草田男の『来し方行方』(昭和二十二年)、誓子『激浪』(昭和二十一年)。こうした句集にずいぶん影響を受けました。
これらの句集がすぐれているということももちろんありますが、それ以上に読んだときの自分の状況が大きかったのですね。若くて感受性の強いときに、いちばん刺激のあるものに出会ったんですから。
――しあわせでしたね。もっとも多感なときに、いわば現代俳句の最高峰の作品がつぎつぎと世の中に発表されて、柔軟な感性に入ってくるわけですから、どんどん吸収していますよね。〈哲学書支へるごとし昼の蟲〉〈壁の中に風邪の二つの眼を嵌めて〉。楸邨に似ているところもあったりして、いいですね。〈寒梅や鏡老いたる人の家〉これも名作ですね。
木枯 その句は誓子先生が誉めてくださったんです。
――ほんとうに、いい句が多いですね。総合誌でも、こんなに粒揃いの二十句が発表されているのは、なかなか見ません。「ウキグサ」には、毎月発表していたのですか。
木枯 ええ、毎月出していました。当時は、誓子先生でも四十五ぐらい、、多くの作家が三十代、四十代で脂がのりきっていたんです…。
――それを多感な青年がしっかりと受けとめて、自分の作品に生かしているのはすばらしいし、本当に羨ましいです。まだ二十二歳だというのが信じられないほどです。これらの句は『汗馬楽鈔』(昭和六十三年)に載っているのですか。
木枯 載っているのは、二、三句ですね。
――そうですか。『八田木枯少年期句集』には、ぜひとも載せていただきたいですね。
(次回に続く)
思量 八田木枯
絵葉書の帝都今なし夜の蠅
みちびきや飛燕の一線あるとき輪
夕ぐれを婚れば濃ゆき蚊火煙
嶺を指してからだますぐに花野人
霜焼の指を微塵に湯にひたす
白壁やとべば小鳥は空の中
靴が痛き秋日の中の別れかな
干物や犬家を出る百日草
くちづけの宵の青きは秋鯖か
古下駄やバツタ青嶺に輪を描いて
青胡桃流水せけば村安し
教師病む塩辛蜻蛉干竿に
驚けば驚く鼠孤りの冬
薔薇色の大寒の天米を購ふ
花野には母のうれしき声が待ち
おもふてはならぬことよと虹消えて
壁の中に風邪の二つの眼を嵌めて
哲学書支へるごとし昼の蟲
大揚羽かつ驚きて家凹む
寒梅や鏡老いたる人の家
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