2011-08-28

俳句甲子園見聞記 野口裕

俳句甲子園見聞記
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野口 裕


松山に行ってきた。主な目的は半年前に松山へ転勤となった弟とその家族を訪問することだったが、俳句甲子園を見物するのも目的の一つだった。二年ほど前にも見物したが、初日の大街道という商店街のアーケード下で行われる予選のみで帰った。今回は、松山市総合コミュニティーセンターで行われた二日目を見た。

初日の大街道は今回見ずに、弟たちと過ごした。そのあと、夕食を取ったところが奥道後温泉。俳句甲子園の出場者が宿泊所としていたようで、夕食後に一風呂浴びに行ったところで一群の高校生たちとすれ違った。どの高校だったかまでは分からないが、一日目と二日目をつなぐ時間帯を見物したような気になった。

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二日目の会場に出かけると、すでに敗者復活戦が始まっていた。準決勝へは3チームが勝ち残り、最後の1枠をかけて予選から準々決勝までの負けてしまったチームすべてが一句ずつを提出し、1チームだけが選ばれる。舞台の上で、各チームの代表が一句を披露して自句解説(パフォーマンス付きのチームもあり)、そのあと審査員から質問を受ける段取りで進んでいった。題は「西瓜」。

前回、見物した予選の時も感じたのだが、俳句甲子園の題は季語そのものが多い(ざっと過去の記録を見たところ、予選・敗者復活段階までが季語の題。それ以降は、無季の題となっているようだ)。

季語を題とすると、その言葉の持つ連想力が強いため、作者の思いをストレートに書くと、連想力と思いが喧嘩してうまくいかない場合が多い。

今回、このタイプの句は、前日の予選などで負けたくやしさをぶつける場合が多かった。しかもそれを自解させるのだから、句の背景を自らばらすことになり二重に不利であった。そのハンデの多くは、作者の高校生としての未熟さゆえだろうが、題がそのように仕向けている面はないだろうか。逆に、連想力に頼り切ってしまい、他愛ない句になる場合もよくあった。他愛ない句の代表選手といえば、孫俳句だが、高校生はさすがに孫俳句は詠まない。だが、孫の立場から祖父母を詠むことはちょくちょくある。

成功した句は、題の連想力をうまくいなしているようだ。敗者復活戦の全句は、 http://www.haikukoushien.com/history/14th/2.html  に出ているが、宇和島東のリズミカルな弾む感じ、巻の見立て、愛光の描写力などが印象に残った。さらに、矢板中央はコマ落とし撮影のように種からすいかとなるまでを言葉でつないでしまおうとする強引さ、吉祥女子は齢経た女性では濃厚に出てくるナルシシズムが淡く出ているところなどに、より強い印象を持った。

敗者復活戦を勝ち上がった開成Aは、開成Bの句ともども、昔風の正義感あふれるティーンエージャーならば白砂や太平洋の代わりに福島あたりを引っ張り出してきて句の収拾がつかなくなってしまうだろうが、そうはならないところ、いかにも現代という感じがする。

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準決勝・決勝では、敗者復活戦を勝ち上がった開成Aのディベートの巧みさが目を引いた。たとえば、準決勝の大将戦(http://www.haikukoushien.com/history/14th/14th_jun_cd.pdf)の松山東の句、

 夕立坂窓に自分がよく映る

に対して、開成Aはまず松山東に自解を求める。松山東は、坂の途中、雨宿りした場所にあった窓に作者自身の姿が映った、と答える。

そこで開成Aが、句の作者の立ち位置は家の中ではないかとして、夕立で暗くなった屋外を眺めているときに、窓に映っていた自分の姿を認めたとする方が自然ではないかと責め立て、そうであれば、「坂」の一語は不要ではないかと、畳みかける。題となっている「坂」の一語が不要といわれては松山東も自解を引っ込めるわけにも行かないだろう。「坂」の途中だからこそ、夕立に降り込められて難儀している作者自身の惨めな姿が迫ってくると強弁する。

だが、窓が鏡のように働くためには、自身から見て窓の向こう側は、自身のいるこちら側よりも暗い方が良い。夕立でにわかに暗くなった屋外を窓の向こう側とする方がわかりやすい。冷静に見て、このやりとりは開成Aに分がある(もっとも、「坂」が不要とまでは言えないだろう。作者が家の中にいればこそ、不安定な心理状況を暗示するものとして、「坂」は十分働いていると考えられるからだ)。

あらためて考えてみると、このやりとりは合評形式の句会では起こりにくい。句の解は、まず選んだ側から行われる。他者の読みを聞かされて、作者は、あ、そうだったのかと気づくか、仮に私はこんな意図で作ったんですけどと言っても、いやそうは読めませんよ、でも良い句ですよ、ぐらいの会話でけりがつく。そんな読みは認めません、私の意図はこうだったんですと、作者が言い張るのは例外に属する。だが、ディベート形式ではそれがたやすく起こる。起こりやすいように仕掛けたとも言える。それだけ開成Aが巧みだったということになる。

ディベートにおいて開成Aが巧みだったのはそれだけではない。四分間の討論をできるだけこちら側の弁論でタイムアップとなるようにすること、自句の欠陥はなるだけ目立たないように弁論を進めてゆくことなどが上げられる。後者の例は、松山東の「夕立坂」に対抗する開成A側の句、

 夏祭坂に灯の沿ひにけり

について、松山東が、灯りの連なりときには屋台の灯なども混じることも想像されすてきな句だと思うが(句解がまず示されている)、実は「夏祭」の一語の中にそれらは含まれているのではないか、季語の力(言葉の力でも良いと思うが、たしかにこう言ったと記憶するのでそのままにしておく)を信じていないのではないか、と切り込んだ。

対して開成Aは、この句は祭りの中を歩きながら、ひとつひとつの灯を見ていく景ではない。そのような句はよくあるが、この句は灯の連なりを遠景として見ているのだ、したがって坂の存在が一望のもとに現れるのだ、と説く。「夏祭」の一語の中に、このような景は含まれているのではないかという問いに直接答えることなく、なんとなく句の存在意義を納得させてしまう。実に手慣れたものだが、合評形式の句会では、よくある景ですよ、で済んでしまいそうな気もする。

結果は十三人の審査員のうち、松山東の勝ちが5人、開成Aの勝ちが8人であった。句だけを判定すれば、松山東の勝ちと出ても不思議ではない。ディベートの優劣がなければ、票はもっと近づいていただろう。このような調子で開成Aは準決勝・決勝と勝ち進み、ついに優勝をつかんだ。

ディベートで句の優劣を決めるやり方は、古くからある「歌合」にその淵源を見ることができる。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」と「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の二首などは、いろいろな逸話があるほど有名だ。合評形式の句会よりも熱を帯びやすく、聴衆にアピールしやすい利点を持つ。

高校生の発達段階から見ると、ディベートに耐え得るだけのコミュニケーション能力を持つ層は限られるだろう。したがって、俳句甲子園に集まる高校生たちの層が偏ってくることは、今後あり得るかも知れない。だが、おそらく、俳句の入り口としてこれより優れた形式はないに違いない。末永く続いてほしいイベントではある。

弟が、次の転勤をしない限り、また行くこともあるだろう。また、じっくりと楽しませてもらうことを期待したい。




≫俳句甲子園観戦記(撮りおろし):spica
一日目 http://spica819.main.jp/atsumaru/2497.html
二日目 http://spica819.main.jp/atsumaru/2560.html
三日目 http://spica819.main.jp/atsumaru/2638.html

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