〔週刊俳句時評50〕
「裸か身や」 俳句における女性性という謎
五十嵐秀彦
(以下の論考は俳誌『逸』第29号平成23年7月31日発行に発表したものである。だからタイムリーな話題とはけして言えないテーマであるかもしれない。しかし過去に週刊俳句で読んだ論考に触発されて書いたものであるため、今回時評として転載していただくことにした。この「女性性」というテーマはまだ十分に語られていないものだ。できれば今後もこのテーマをとり上げてくれる人が出てくることを期待している。)
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今回、どう書き出したらよいかかなり困った。自分で好き勝手に決めたテーマであるのに、今ごろになって怖気づいている。
「俳句における女性性という謎」
ふむ。ちょっとこのことを一度書いてみたいと思ったのは「週刊俳句」196号(平成23年1月13日)に掲載された神野紗希のエッセイ「木曜日と冷蔵庫 俳句にまつわる女性性の問題」を読んだのがきっかけである。そのとき思い出したのはさらに1年3ヵ月前に遡る「週刊俳句」129号(平成21年10月11日)掲載の三宅やよいのエッセイ「居心地の悪い身体 柴田千晶句集『赤き毛皮』」であった。
このふたつのエッセイは共通したテーマを少し異なる視点から論じているところが好対照であり、またどちらもなかなか鋭い論の提示がなされていた。そこでキーマンとなったのは柴田千晶であり、鈴木しづ子である。さらに神野のエッセイでは椎名林檎がそこに加えられている。文芸における「女性性」の表現に対する共感・反発が入り混じり、さらにそれを持て余しているところがどちらにもあってそれぞれに問題を投げかけている。
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では簡単に(乱暴に)要約してみよう。
まず書かれた順に三宅やよいの「居心地の悪い身体」から始める。三宅は冒頭で柴田千晶の句集『赤き毛皮』のあとがきを紹介していて、その中に次のような一文がある。
《十代のころから一貫して「性」を主題に詩を書いてきた。自己の性を描くことで、この世に存在することの不安と孤独を書いたつもりである。「性的な私」の、この生き難さはどこからくるのか。志としては、私は「性」を主題に「人間」を描きたいと思っている》
この柴田の言葉から、三宅は鈴木しづ子のことを思い出す。
欲るこころ手袋の指器に触るる 鈴木しづ子
体内にきみが血流る正座に耐ふ
これらの句が、しづ子の私生活への憶測と結びつき性的な句と解釈され、そこから興味本位の鈴木しづ子像が作られたことや、今なおその文脈でしか語られないことに対し、三宅は《性を通じたしづ子の話題はもういいといった気持にもなる。それはしづ子を通して語られる物語がさっぱり現在的問題に更新されないからだろう》と捉えている。そして柴田千晶に対しては《真剣に性に立ち向かうならば必然的に引き寄せてしまうなまぐささ》を感じている。
夜の梅鋏のごとくひらく足 柴田千晶
まはされて銀漢となる軀かな
闇汁の魔羅女陰乳房喉仏
こうした柴田の作品に、三宅は後ずさりしてしまうものを感じもする。また、こうした作品は、しづ子と同様に柴田の作品そのものに向かい合うこととは別な興味や、あるいは拒絶をひきおこすものかもしれないと思いながらも《口当たりのいい身体感覚では表しきれない生と性との断絶こそが問題なのだ。その断絶を回復するためにはより過激にならざるを得ない》と三宅は評価し、《読み手から跳ね返ってくる軋轢を楽しんでいる》とも感じている。このエッセイからは、日頃なかなか踏み込めない赤裸々な「女性性」の表現を、「断絶の回復」のために必要な勇気であると認めながらも、それがかえって誤解や偏見を導き出すことになるというジレンマ、さらにはその誤解や偏見を楽しんでいるというパラドックスが作者側にありはしないか、という指摘が読み取れるのである。
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さて、次に神野紗希のエッセイ「木曜日と冷蔵庫 俳句にまつわる女性性の問題」に移ろう。彼女はJ-POPを切り口にしてひとつの面白い問題を提示してみせた。神野が子どものころ夢中になった歌手に椎名林檎やCocco、鬼塚ちひろたちがいて、彼女たちの歌う「性や死」その詞の「過激」さに慰められたと言う。ところが東京に出てみると、椎名林檎ファンの男たちが多いことを知り、《結局、性をあけすけに歌っても、今度は、そのいう女性が好きな男性に愛されるのだ》《アイドルは、女性性を直接扱っていて、椎名林檎はそれを逆手にとっているが、女性性がないと成立しないという点ではどちらも同じなのだ》と神野は考えるようになる。
そのことを、『超新撰21』(邑書林)を読んでいて思い出したという導入部が、私にはとても興味あるものだった。そして神野は、表現における女性性の問題について、さらに鋭い踏み込みをしてみせる。
どうも引用が多くなり気がひけるが、とても重要な発言部分なのでお許し願いたい。
《いくら過激であろうとも、結局「女子」と呼ばれるのだ。女性は消費される。これは、もう、しょうがない、しょうがないと言ってしまうと身も蓋もないが、女性という性別と肉体を与えられた以上、私たちの眼の前には、それを利用するかしないか、という選択肢しかない》
標本になる草食男子の数や どこまでいけば美味 種田スガル
夜の梅鋏のごとくひらく足 柴田千晶
おや。ここで再び柴田千晶に私は出会うことになる。前述の三宅やよいのエッセイと、この神野のエッセイをつづけて読むと、鈴木しづ子~柴田千晶の流れに、二人の表現者が自らの性を絡めてしまうジレンマとしての「女性性」というものが見えてきて、それを読み解くのに椎名林檎が実に恰好のモデルであることがわかってくる。
たとえば有名な「歌舞伎町の女王」だ。私はこの歌を初めて聴いたとき、なんとあざとい歌だろうと思った。まるで五十代の男の詩人が描くような新宿神話を、年端もいかない女性が歌っているのだ。あたかも新宿大ガードの下の、肌にまつわりつくような空気をくぐり抜けるときのような、三四十年前の新宿の猥雑な雰囲気を再現していることに驚いたのである。そこに歌われる女は、したたかではあるが自らを商品として生きる哀しみを抱えている。と、男は受け止めてしまう。そこには男の願望と罪悪感とが、ミラーボールに映される醜い顔のようにちらちらと蠢くのだ。ここにある送り手と受け手のありかたは、表現としての「女性性」にいつもついてまわるものだろう。
内腿に触れし冷たき耳ふたつ 柴田千晶
円山町に飛雪私はモンスター
柴田千晶のこのような句には、椎名林檎の「男から見た世界像」の中の「女性性」と同じものをあえて詠っているようにも感じ、次の鈴木しづ子の句とも通じるある種の企図を思わずにはいられない。
ダンサーになろか凍夜の駅間歩く 鈴木しづ子
娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
それが現実の世界で、出版物としての鈴木しづ子『夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』(河出書房新社)の帯に「椎名林檎推薦」などというあざといキャッチが踊ることになって、まさに神野の言うとおり文芸においても「女性は消費される」のであることが、実践されているのを目の当たりにするのである。
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ここでひとつ整理をしておこう。
三宅の論旨は、ジレンマを持ちつつも明快なものがある。それは赤裸々で過激な女性性の表現が「生と性との断絶」を回復するために必要であること。しかし、同時に誤解や偏見を導き出しやすいが、表現者はそうした読み手との軋轢をも予見し楽しむ存在であることを指摘している。
一方神野は、性の過激な表現に女性として共感を持っても、現実にはそのことで男に愛されることになり、芸能の世界がそうであるように文芸においても「女性は消費される」存在になってしまうことを述べている。
どちらも俳句における「女性性」について考えているのだが、三宅は過激な表現が断絶の回復のためには必要だとする前向きさを示しているのに対して、神野は必ずしもそうではない。
「利用するかしないか、という選択肢」として捉えられているのだ。そして次の言葉が神野の立ち位置を明確に示している。
《過激で暴力的なものが一番面白い、わけではない。たとえば前衛芸術の隆盛したころはそうした価値基準が有効だったのかもしれないが、そういう時代は、とうに過ぎ去った》
ここに二人の世代の差が見て取れそうだ。簡単に世代論に置き換えるつもりはないが、三宅と同世代である私には、神野の発言に世代的な違和感をおぼえてしまう。
「そういう時代は、とうに過ぎ去った」と言ってしまっていいのだろうか。前衛的取り組みを流行のように浅くとらえているように思えてならない。心に抵抗感のあるものを、あえて暴き出し動揺を生み出すところから真実に辿りつこうとするのか、あるいはそれを露悪趣味ととらえ、ポーズに過ぎないと遠ざけるのか。その違いが両者にはあるのだが、そのことを表現における「女性性」で見たとき、まるで壁のような疑問にぶつかってしまうことも理解できる。
三宅が、柴田千晶の向こう側に鈴木しづ子を見るのは当然だろうし、神野が椎名林檎と柴田千晶の類似を思うのも理解できる。また、出版社が鈴木しづ子と椎名林檎を結びつけるのも故ないことではない。なぜならそこに典型的な「女性性」があるように見えるからだ。しかしその「女性性」が女性のオリジナリティであるのかという疑問。それをふたりとも強く感じているように読み取れる。神野の言わんとしたことはまさにそのことだろう。
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文芸や芸能の世界に平凡を求めるものはいない。そこに暗に求められているものは、ドラマである。モノ言わぬ文芸である俳句とても例外ではない。
たとえば、私の心の底に鈴木しづ子の句によって呼びさまされるドラマがあるとすれば、それは何だろう。もちろん日常的な何かではないのだ。呼びさまされるものが非日常であるからこそ、ドラマとなるのである。それは何か。すると、私は自分自身の記憶を遡りはじめる。
若いころに関係のあった女性、またはその人生に多少なりとも心を動かされた女性たち、そして表面は普通を装いながら人には言えない日々を送っていた女。自分が直接関係あろうとなかろうと、自分の周囲にいたそうした女たちの記憶。多くは心の底に静かに眠っている。鈴木しづ子や柴田千晶の言葉は、そんな記憶を呼びさますのである。
それは椎名林檎の歌も同じことのように感じられる。
「朝の山手通り煙草の空箱を捨てる」と彼女が唄うとき、その詞によって喚起される記憶の中の「女性」。その「記憶」が事実であったかは問題ではなく、その瞬間に再構成されるドラマが重要なのであって、それにより鑑賞というものも生まれてくる。
そのような表現が、神野の言うところの「消費される」女性なのであれば、ここに消費者である私がいることになるのだ。はたしてそうだろうか。
このことをしばらく考えたのだが、なかなか結論には至らなかった。私は三宅が言うところの読者との軋轢を楽しむ作者側の姿勢を感じざるを得ない。そのことを、鈴木しづ子の「神話」のひとつでもある第二句集『指環』出版記念会(昭和二十七年)の彼女のあいさつにも感じとれるのだ。彼女はこの一言を最後に失踪。その後の行方を知る者はひとりもいなく、生死さえ不明である。
「それでは皆さん、ごきげんよう。そして、さようなら」
これはまるでコンサートの最後に椎名林檎がやってみせる大げさなお辞儀に似ているのだ。これがあたかも今生の別れを男に向かってしているかのような、あのドラマチックなお辞儀である。そのとき椎名は、あるいは鈴木しづ子は「消費者」である男たちをみごとに「消費」しているのではなかろうか。
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ジェンダー論になることを極力避けようとしながらこれを書いているのだけれど、この世に男と女とがいて、そこに「性」という接点があり、それが本能に支配された行為でありながら同時に人間的な想像力を不可欠とすることであると考えると、「選択肢」はまさに、武器のごとくあるのである。そのことに全く触れずにいることももちろん可能だし、大きく踏み込むことも可能だろう。大きく踏み込んだとき、それが人の纏った強固な鎧を突き破ることもできるのかもしれない。それを「過激」と呼ぶのだろうか。私は過激だとは思わない。三宅の言う「生と性との断絶」を回復するためには当然そこまで行かねばならない。そして断絶からの回復という意味では女も男もないのである。椎名林檎の歌が男の夢想する女を女の側から鏡像のように表現していると同時に、男がそれを受けとめるとき、性をとおして性を超える感覚を味わってもいるのである。それは存在の沼の底なのかもしれない。
鈴木しづ子も柴田千晶も単純に男の存在を意識していたわけではなく、男の視点をも実は彼女たちの存在の中にあったのではないか。そして三宅、神野の感じるジレンマもまさにそこから発生しているのであり、読者はそのことも感じ取っているのであって、そのとき男でも女でもない両性具有の存在になっているのかもしれないと思うのだった。
さて、結局このテーマ、明快に腑分けすることは永久に不可能と気がついた。それは収穫なのか、それとも悲しき限界なのか。
裸か身や股の血脈あをく引き 鈴木しづ子
※『逸』第29号平成23年7月より転載
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2011-10-30
〔週刊俳句時評50〕「裸か身や」 俳句における女性性という謎 五十嵐秀彦
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