〔週俳9月の俳句を読む〕
右脳読み
田中 槐
まだ脳内の俳句ストックが少ないので、たいていの俳句は新鮮で面白い。それでもおのずと「好き嫌い」や面白がり方に偏りができてくるというのは不思議なことである。ものごとを好き嫌いで判断しているときは、右脳が反応しているのだとか。相変わらずの右脳読みで失礼いたします。
「天の川」 藤崎幸恵
芒原溺るるときのこと思ふ
もう芒原なんて滅多に見なくなったし、あったとしてもそこに分け入って行くようなことはしないだろう。この句の「溺るる」は、単に芒の海に溺れることではないような気がする。もっと抽象的な、俗っぽくいえば恋でもいいのだが、そういうものに溺れる気持ちなのではないか。溺れることの快感を思いながら、作者は決してそこに入ってはいかないのだろう。
「役目」 岡田由季
鵙の来るまでは庭木のぼんやりす
鵙のよく来る木なのだろう。鵙というのは一羽でも存在感のある鳥だから、あのけたたましい鳴き声には木も迷惑がっているのではないか。その迷惑がっているようすを描くことのほうが俳句っぽいように思うのだが、作者は鵙のいないときの庭木のようすを描く。ちょっと油断してぼんやりしている木。「ぼんやり」に惹かれた。
「月姿態連絡乞ふ」 佐山哲郎
ティンガティンガ派として描く月の穴
ティンガティンガって何だろうと思って調べてみたら、アフリカのポップアート作家の名前、あるいはその手法のことらしい。そんなことは知っていてもいなくても、「ティンガティンガ」という音の楽しさだけで読んでもいいような句。ただ残念なのは「月」との取り合わせが、抒情のほうに引き摺られてしまったのでは、というところ。「穴」に行ったのは面白いのだけれど、もっと突き抜けてほしかった。
「回文子規十一句」 井口吾郎
またの名は子規と絵解きし花の玉
聞きしに勝るホモ掘る様に子規忌
回文というのは、ただ上手にできているだけではだめなのだと思う。やはりそこに、思いがけない破壊力みたいなものが生まれてほしい。個人的には、きれいに決まった一句目よりは、二句目に「おっ」と思う。ただ、作者が面白がっているほどには(感心はされるけれど)その苦労をそれほどプラスにとってもらえないのが、こういう言葉遊び系の句の悲しさかもしれない。
「死角」 嵯峨根鈴子
入らぬと決めたる墓を洗ひけり
どの句にも、ちょっとしたドラマがありそうで、でも肝心なところが見えにくいという印象だった。逆にこの句はわかりやすすぎるのかもしれない。入らないと決めているにもかかわらず、そのお墓を洗っている姿には、憎しみどころか、どこか愛情さえ感じられる。案外、入らぬと決めたる墓に入りけり、となるのかもしれない。
「猫になる」 赤羽根めぐみ
薄目して月光発電中の象
そういえば上野動物園が夏のあいだ、夜間開園をしていた。夜行性の動物などはたしかに夜のほうが面白そうだ。象はどうだろう。この句のように、じっとしているような気がする。「月光発電」には、昨今の節電事情への軽い皮肉もあるかもしれない。ただ、感覚的には「月光充電中」に近いとも思う。じっと、電気を溜めていることのほうが、象のあの巨躯には似合いそうだ。
第228号2011年9月4日
■藤崎幸恵 天の川 10句 ≫読む
第230号2011年9月18日
■岡田由季 役 目 10句 ≫読む
■佐山哲郎 月姿態連絡乞ふ 10句 ≫読む
■井口吾郎 回文子規十一句 ≫読む
第231号2011年9月25日
■嵯峨根鈴子 死 角 10句 ≫読む
■赤羽根めぐみ 猫になる 10句 ≫読む
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2011-10-09
〔週俳9月の俳句を読む〕田中 槐
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