【週俳4月の俳句を読む】
鳥に会いたくて
小川楓子
昨年、はじめて巣箱を作った。全体を乳白色で塗り、深いブルーで唐草に似た模様をちいさく描いた。震災のあと、その巣箱にシジュウカラが巣を作った。朝、家を出るとき、そして帰ってきたとき、いつもさえずりが聞こえた。今年も庭に鳥たちは来たが、結局巣を作らなかった。近所でシジュウカラを見つけると、うちから巣立った子かもしれないと思う。だから、鳥が気になってしかたない。
伊勢丹の空ほそながく鳥渡る 西丘伊吹
伊勢丹新宿本店ビルの間の空であろうか。迷子名人のわたしは、新宿という街がうっすら、いや、かなりこわい。つい最近も待ち合わせの場所の伊勢丹新宿本店が見つからず、メンズ館と伊勢丹会館をうろうろして友人に救出されたばかりだ。一方「空ほそながく鳥渡る」の中七、下五はすっきりとして読み心地がよい。新宿という街を作者がたしかに見つめている。韻律に乗って、シャープで都会的な空、ファッショナブルな伊勢丹というデパート、そこを颯爽と歩く作者の姿が思い浮かぶ。
人工のひかりのまちや都鳥 衣衣
チョコチップ買って眺める渡り鳥 日比藍子
一句目、ペンキを塗ったようなあざやかな赤いくちばしと足を持つ都鳥。都会の澱んだ川べりに、ずらりと並ぶ姿をときおり見かける。「人工の」とは、まちだけでなく都鳥の雰囲気をも思わせる。「ひかりのまちや」と仮名書きにすることで、都会の風刺にとどまることなく、現実から少し浮遊した世界を作り出している。二句目においては、渡り鳥に向ける作者のフラットなまなざしに注目した。作者にとって、チョコチップと渡り鳥が等価であるような描写。買ったのが普通の板チョコなどではなく、チョコチップであることも面白い。クッキーなどを作るときに使うチョコチップは、オーブンで焼いても溶けてなくなってしまうのではなく、その形を残す。ときには、小さくとも存在感のあるチョコチップのように、渡り鳥が配されてもいいなと思う。
水鳥のくちばし折ったお菓子です 楢
水辺の鳥。水と鳥で水鳥。水からあがっても水鳥と呼ばれ、水鳥は寂しくはないか。ふとそんなことを思ったことがある。うつくしい水鳥のくちばしを折った形に、どことなく寂しさとせつなさを感じる。その形をしているのがお菓子であるから、それらはほんのりと甘美。「くちばし折った」に助詞がなく「です」で結ぶことで、少女のひとり言のように瑞々しい雰囲気の句となった。
鶯を鶯笛としてみたし 西村麒麟
鶯を笛として吹いてみたいという。てのひらに包み込むとふっくらとした羽毛から鶯の体温が伝わってくる、そんな鶯笛があったならと思い描く。鶯のからだが人の息によってぷうと膨れると想像すると、くすっとわらいたくなる。でもよくよく考えると少々こわい気もする。それゆえにこの句は一層楽しくなる。
春闌けて滝のよぢれの太くあり 山田真砂年
雪解けの季節となり、また降水量も増える春。冬の間、頼りなく流れていた滝であるが、今は水量が増え、春を謳歌するようにゆたかに流れ落ちている。太くよじれた滝には、生命が息づくかのようだ。中七、下五を「の」でつなぐことで一瞬の滝の様子を一句にたしかに留めている。「春闌けて」の優美なイメージに、武者のように勇壮な滝が際やかである。
沼のような電話だヒヤシンスを探す 宮崎斗士
はじめは、沼のような電話≒ヒヤシンスであろうかと思った。子供の頃、水栽培のヒヤシンスを、根の出てくるまで、厚紙で覆い暗くして育てた。ギリシア神話には、たしかヒヤシンスにまつわる悲愛の話があったように思う。沼の湿り気と暗がりを帯びた長電話は、まさにヒヤシンス。しかし、ふと24歳で夭折した立原道造が設計した、ヒアシンスハウスを思い出した。道造が自らの隠れ家として設計した家は、五坪ほどで窓は大きすぎず小さいながら棲み心地が良さそうである。この句のヒヤシンスは、道造のヒアシンスハウスのような小さな隠れ家へ、沼から脱出するイメージなのかもしれない。沼のような電話を受けながらヒヤシンスを思う作者に、一時さわやかな風が吹く。
第258号
第259号
■西村麒麟 鶯笛 30句 ≫読む
第260号
■宮崎斗士 空だ 10句 ≫読む
第261号
■hi→作品集(2010.10~2012.3) ≫読む
■新作10句 イエスタデー ≫読む
第262号
■山田真砂年 世をまるく 10句 ≫読む
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