【週俳4月の俳句を読む】
転がれば消え失せし
嵯峨根鈴子
春泥や茂吉のバケツ転がれば 津髙里永子
春雷や耕衣のバケツ消え失せし 同
対句として置かれたこの二句。茂吉と耕衣がそれぞれのバケツを持たされて並んでいる図が浮かぶ。これだけでもう何かおかしいが、ここでのバケツとは恐らく、それぞれの身体だとも考えられる。そこで二句の共通するところを削ぎ落してみると、差異がはっきりするだろう。つまり「茂吉は泥に転がれば」と「耕衣は雷に消え失せし」ということになる。つまり「泥」と「雷」との対比であり、「茂吉」と「耕衣」の対比であるということだろう。では茂吉と耕衣を、あるいは泥と雷を入れ換えてみればどうだろう?私など耕衣なら雷より泥の方が似合いそうにも思えるのだが、しかし茂吉ののど赤き玄鳥(つばくらめ)も泥が好きかもしれないので捨て難い。いずれにせよ、この二句、バケツよりも大甕にでも放り込んで、何年か発酵させたのちに、もう一度味あわせてほしいものである。二句はまるで合せ鏡のようでありながら下五で読者はおおいに惑わされる。「転がれば・消え失せし」そして舞台にはなにもなくなった。
先頭が八田木枯鶴帰る 西村麒麟
突然のなんだか羨ましいほどのあっけなさで逝ってしまわれた俳人。「鶯笛に先生の死を言ひ聞かす」「夕べからぽろぽろ泣くよ鶯笛」「天上へ鶯笛は届くかな」鶯笛とは作者そのものであろう。この後なにがあろうとも、この作者は「死」をこのようにはもう詠めまい。
沼のような電話だヒヤシンスを探す 宮崎斗士
ヒヤシンスは永らく酒場のカウンターの隅におかれたままで、どうにかしてもっと違う空の下に出してやりたいと思っていたのだが、電話に繋がって沼まではどうにか出られたようだが、果たしてヒヤシンスは見つかるまい。電話は未だ銀河系の酒場のものだ。
東京をめくれば土や月今宵 西丘伊吹
めったに東京へは行かないが、東京をめくってみたいそんな気持ちになることがある。名月の夜なら尚更のことだろう。一枚目を捲って本当に土が現れるだろうか?何枚めくれば東京はその素顔を見せるのだろうか?
神様と型ぬきをする宵祭 衣衣
型ぬきといえば、動物の型でぬいて焼くクッキーのことぐらいしか思いつかないが、宵祭の晩であり、相手は神様であるから、クッキーではないだろう。ここはもっと破天荒に大きく考えてもよさそうだ。神様と共に型ぬきで創ろうとしているのは、正に命なのだ。これは女、この赤いのがベビーで、この金色のが小鳥・・・てな具合ではなかろうか。
かなしみは感光されて冬の虹 楢
そうです。かなしみが感光されて、そしてできたのが冬の虹だということなのです。でもかなしみは一体何に感光されたのでしょうか?かなしみはかなしみ自体に感光した結果冬の虹となったのです。そうです。
雛壇の裏に隠れて飲むお酒 日比藍子
雛壇の裏には普段は隠されているもろもろが潜んでいる。例えば異界への入り口だったり、行方知れずの子供だったり・・・。読者を思いもかけないところまで連れて行ってくれるそんなところだろう。意味の重複はもったいないし、答がでてしまっては興が失せる気がする。ともかく俳人は雛壇の裏が好きである。心して詠みたいと思う。
ぼうたんやふくよかな脚湯に沈め 山田真砂年
森澄夫に「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」があるが、この句について森澄夫自身が語っている。有名な牡丹をみようと吟行したのだが、あいにく牡丹は終わっていて、牡丹を見ることができなかった。実際に咲き揃った牡丹を眼前にしていたら、この句は出来たかどうかと。さて作者はふくよかな脚でどっぷりと湯に浸かっていたのか、足湯でもしていたのか、数えられない程の牡丹の花と共にゆらゆらと揺られているような気持になったのではあるまいか?疲れた脚に心地良い湯と牡丹の取り合わせは、名句に呼ばれてできた一句と思いたい。
第258号
第259号
■西村麒麟 鶯笛 30句 ≫読む
第260号
■宮崎斗士 空だ 10句 ≫読む
第261号
■hi→作品集(2010.10~2012.3) ≫読む
■新作10句 イエスタデー ≫読む
第262号
■山田真砂年 世をまるく 10句 ≫読む
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