句集の題に採られた句でもある〈掛稲のすぐそこにある湯呑かな〉ですが、掛稲と湯呑の距離「すぐそこ」について、ツイッターにて幾つか御意見をいただきました。至近距離説とある程度距離ある説があり、外で茶を飲んで休憩しているか、縁側や部屋で飲んでいるかの違いによる部分が大きいのですが、皆さんはどちらがお好みでしょうか。自分の鑑賞は、どうもこれまで自分がよく目にしてきた農家の情景に引きずられているような気もするのですが、これが一番しっくり来るんですよね…。
さて、第二句集『湯呑』は引き続き第Ⅲ章(昭和49年から51年)から。今回鑑賞した句はだいたい49年秋冬から50年の初め頃のもの。〈左義長へ鵯もはげしく来て鳴きぬ〉は、1月に乙訓の向日神社で左義長を見たときの句のようです。第Ⅲ章に入って句の雰囲気が変わったなという印象を持っていましたが、句の姿は自然ですんなりとしていながら、読み込んでいくと不思議な手触りや奇妙な存在感を感じさせる、そんな句が多いように思います。
芋虫を木曾山中に嗤ひけり 『湯呑』(以下同)
「嗤」は尋常な笑い方ではなく、歯を剥き出して嘲笑うことを指す漢字。芋虫は、その歩みの遅さを笑われたのか、それともその鈍重な姿を笑われたのだろうか。雄大な木曽山脈に響き渡る悪意の込もった笑い声は、どことなく不気味で、どことなく物悲しくもある。
石榴みな弾けて媼にこにこと
拳大の球状の実をつける柘榴。熟して果皮が裂け、紅色の種子がひしめく様子は非常に印象的だが、掲句では鮮烈さよりも、懐かしさの方に重点がある。「みな」と言いたくさんの柘榴を描き、笑顔の老婦人を配することで、柘榴の鮮烈さが暖かみに変質している。
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
掛稲は、刈った稲を掛けて乾燥させるための木組み。湯呑があるのは部屋か縁側か、どちらにせよ掛稲まで10~20mはあるだろう。物理的な距離はどうあれ、そこに暮らし、農に携わる者には「すぐそこ」。「すぐそこ」とは心理的な距離感の表れる言葉だ。
茶の花のするすると雨流しをり
冬の初め頃、白い五弁の小振りな花をうつむくように下向きに咲かせる茶の木。時期的に、時雨のような雨を思う。「するすると」という描写から目に浮かぶのは、葉で集まって筋となった雨が花の上を滑るように落ちる様子。つややかな花の質感を感じさせる。
萩刈りしばかりに雲のはらはらと
景としては、刈られた萩とはらはらと吹き流される雲の群が見えるが、その関連に独特なものがある。「ばかりに」は、「◯◯したばかりに◯◯」のように、原因となる行動が悪い結果をもたらす時に用いられる。萩と雲との、奇妙なつながりが因縁めく一句。
左義長へ鵯もはげしく来て鳴きぬ
左義長は正月に行われる火祭で、松飾りや注連飾を燃やす。地方によってはとんど、どんどとも呼ぶ。飛来した鵯がいつにも増して激しく鳴き立てているが、助詞「も」で並列されることにより、左義長の火勢、火の周りに集まった人々の賑わいをも窺わせる。
焼藷をひそと食べをり嵐山
春は桜、秋は紅葉の時期に賑わいを見せる嵐山であるが、冬の閑散とした嵐山にもまた違った魅力があるものだ。冬の嵐山の冷え込みを思えば、焼藷は豪華な行楽弁当よりも魅力的に感じられてくる。京都に馴染みの深い、爽波ならではの感慨が色濃く滲み出た一句。
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