〔句集を読む〕
石原明句集『ハイド氏の庭』
関 悦史
居酒屋の主人と常連客たちとの座興で初めて俳句を作ったのが三十四歳で、そのときの句が巻頭に置かれた《そこまでの岬と知りつつ蝶とゆく》。
それから三〇年以上を経て知人の花森こまに句を見せたところ、花森の個人誌「逸」に毎号三百句を掲載することになった。そして定年を機にまとめたのが今回の初句集『ハイド氏の庭』(文學の森)、と石原明の俳歴は概ねそういうことになるらしい。
こうした出自のためか、句集には佳句も多いが、意想が「意想外」にならない句もあり、振幅が大きい。
以下は面白かったもの(句集は春・夏・秋・冬・新年・無季の配列となっている)。
二月二十六日の椿めくればのつぺらぼう
春の光赤子に無駄な部分なし
野遊のアリスと兎手にナイフ
てふてふと書かれて嬉しくならないか
でたらめに土筆芽を出す男の子
恋猫のなめればなほる傷なめる
死んだのと浮いて知らせる金魚かな
かたつむりの時間で角だすかたつむり
命去りて空蝉変な貌であり
和箪笥の力まかせの梅雨湿り
黒南風やラベルのずれるビール瓶
切口上のごとくに咲けり白桔梗
化石にも美醜のありて鱗雲
鷹柱世界は変つてゆくかしら
撃たるるほかなし牡鹿の角立派
残暑かな明日も朝昼晩の飯
寒鴉ところで私は旨さうか
人体のつらさ残りし蒲団かな
初空や縞馬の縞引締まる
マトリョーシカのごとき親子の初湯かな
青空は地球の皮膚かもしれない
海草に紛れ腰振るうつぼかな
「力まかせ」「切り口上」「撃たるるほかなし」と一句に強いアクセントがかかる語彙がわりと多くて、理でついてしまっている句や、詩情の見出しどころに独創性の乏しい句では、不味いところの駄目押しとなる。リズムにあまり意識がいっていない、句の身ごなしが硬い作もときどきある。
《切口上のごとくに咲けり白桔梗》などは、そうしたはっきりした物言いがヒットしたケース。
《人体のつらさ残りし蒲団かな》も、蒲団の乱れようが引き起こす情念の印象を、真っ向から描ききっている。
《青空は地球の皮膚かもしれない》は、青空が地球の皮膚という見立ては理屈のうちかもしれないが、「かもしれない」と余裕を持たせたことと、地上から人間のスケールで見上げる「青空」と、全体を俯瞰する巨視的な「地球」という二つの視点を並存させていることで詩情に転じている。
序文の花森こまが《白木蓮中年と云ふ男振り》を引いてこの作者の「色気」を讃嘆しているが、《黒南風やラベルのずれるビール瓶》《でたらめに土筆芽を出す男の子》《初空や縞馬の縞引締まる》なども、肉体の鬱然たる重たさと外界の明快さとの感応が働いて、張りが感じられ、それぞれなまめかしい。
《マトリョーシカのごとき親子の初湯かな》は、同型でサイズのみ違う親子が初湯につかっている図が画然と見えてそれがそのまま可笑しさ、目出度さに繋がっているあたりが良い味わい。マトリョーシカの滑らかな丸みと「初湯」の組み合わせも色気といえる。
正業につく「ジキル博士」に対して句を詠む自分を「ハイド氏」と称しているが、あえて自分を遊俳に分離・限定していない句が今後見たいと思う。
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2012-06-10
〔句集を読む〕石原明句集『ハイド氏の庭』 関悦史
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4 comments:
的確かつ丁寧な評をいただきありがとうございます。「週刊俳句」のような場所で拙句集の評が掲載されるなど思ってもみませんでした。
先週からパソコンを修理に出していたので気が付くのが遅くなってしまいました。開けてびっくりでした。
イチローのようなプロのヒットは無理ですが出会頭のクリーンヒットをひとつくらいは打ちたいと思っております。
石原拝
花森こまさんが評をしていただいて感謝していますとのことです。
何故かうまく入力出来ないそうなので私が代筆しました。
石原拝
花森こまさんが評をしていただいて感謝していることを伝えてほしいとのことです。
彼女は目が良くなくて、ネットもあまり利用していないので、何度やっても書き込めないので私が代理で書き込みました。
前のコメントが舌足らずだったので再送しました。
石原様
コメントに気付くのが遅れて失礼しました。花森こまさん、お大事にしていただきたいです。
句集、ご恵贈いただいてありがとうございました。
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