後記 ● 村越 敦
先月の毎日新聞・俳句月評を読んで、なるほどと大きく頷くとともに、「日本社会の閉塞感」のその閉塞を体感する度合いの世代差について、ふと思いを馳せた。
たとえばバブル崩壊のころに生まれた自分は、物心ついてからこの方ずっと不景気だったからいまの社会の雰囲気を見ても以前と比べて閉塞しているとは思わないし、こんなものだろうというのが率直なところである。これからの日本社会に過剰な期待を持つということも、ない。周りを見渡してみても、冷静に現状を分析し、どう「武器」を携えて生存戦略をとっていくべきかということをポジティブに考えている人が案外多い気がする。
それから、高度経済成長期の日本を取り巻いていた空気感は写真や映像やせいぜい「ALWAYS三丁目の夕日」などから知りうるのみであるが、じゃあ当時のそれに憧憬があるかといえばそんなことはないし、国民全員が一億総中流で欧米に追いつけ追い越せに燃えていた光景を相対化して眺めることはまったくもって難しいことではない。
でもきっと、~景気、~景気と次々やってくる好景気を肌感覚で知る俳人の大多数にとっては、事態は僕なんかにくらべるとはるかに深刻なのだろう。だからこそ記事の中で岸本さんが書かれていたことがより切実に感じられるのでは、という気がする。
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もちろん俳人も、閉塞感とは無縁でいられない社会の中を普段生きている。そして俳句をやらない人びとと同じく、閉塞感に対するかなしみは頻繁に現出するものではないし、時にはかなしむことさえ諦観して、日々を過ごしている。
けれども俳人は、俳句形式に向きあう刹那、社会を満たす閉塞感に対してあるものは背を向け、あるものは目をつむり、あるものはまたそれを徹底的に描写しようとし、さまざまに防衛機制を働かせるという形でそれを立ち上がらせる。作句をする自分自身に、(無意識的に)閉塞感を意識させる。
それは、閉塞感がいまほど強まっていない時代、すなわち俳句形式に向きあうことを妨害するなにかが比較的小さかった時代を知っているから、そういう態度を反射的に、自然に、とってしまうのではないだろうか。
しかしここまで述べた通り、ただ一点僕たちの世代に特徴的なのは、閉塞感を閉塞感として意識することがむしろむずかしい、ということだ。所与のものとして、バブル崩壊は、9.11は、リーマンショックはある。ゆえに、自由なのである。まっさらな頭で、書きたいことを書くしかないのである。
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だから、「一種のプロテストとしての脱俗」に徹することで逆説的に社会を描写することになるのならば、それは、僕自身にとってもいま一番書きたいことであり、同時に書かかなくてはならないことなのだ、と思う。
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no.271 /2012-7-1 profile
■栗山 心 くりやま・こころ
1964年東京生まれ。「都市」所属。時々「舟俳句会」に参加。ブログ「心の俳句雑貨店」
■松尾清隆 まつお・きよたか
1977年神奈川県生まれ。「松の花」同人。
■小川春休 おがわ・しゅんきゅう
1976年、広島生まれ。1998年「童子」入会。2009年「澤」入会。現在「童子」同人、「澤」会員。句集『銀の泡』。サイト「ハルヤスミ web site」
■野口 裕 のぐち・ゆたか
1952年兵庫県尼崎市生まれ。二人誌「五七五定型」(小池正博・野口裕)完結しました。最終号は品切れですが、第一号から第四号までは残部あります。希望の方は、yutakanoguti@mail.goo.ne.jp まで。進呈します。サイト「野口家のホーム ページ」
1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter
■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。共著『超新撰21』(2010)。ブログ「胃のかたち」
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