空蝉の部屋 飯島晴子を読む
〔6 〕
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小林苑を
『里』2011年7月号より転載
かの后鏡攻めにてみまかれり 『朱田』
后と鏡と言ったら白雪姫の物語。あのお后さまも鏡攻めで死んでしまったのだ。それにしても「鏡攻め」とは、ずいぶん怖ろしい名前ではないか。美しさという呪縛に囚われてしまったら「鏡よ、鏡」と問いかけずにはいられなくなる。現代なら拒食症とか過度な美容整形など、古今東西を問わない死に至る病なのだ。
美貌の后なら、たとえば、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベート。写真や肖像画で見るエリザベートはとんでもなく美しい。そし不幸だ。ただただ美しくあるために生きたこの人も、鏡攻めにてみまかった后のひとりだろう。
「かの」と言って想像力を喚起させ、どこか噂話めいた悪意をしのばせる。それは白雪姫のお后でもエリザベートでも楊貴妃でもいい。女性として最高位の、つまり他に望むもののなくなった、けれども本当に権力があるわけではない飾りものの「かの后」について、人はどんな噂をするだろう。死んじゃったんだって。太らないために、日に焼けないために、皺を隠すために、こんなことをしたらしい、あんなことも。
そして、噂から逃れるように哀れなとつぶやく声もするはずだ。
前号でも触れたように,神戸第一女学校を卒業した晴子は田中千代服装学院に入学する。服飾の途を選んだことは、手に職をつけるという自立の意志とともに、美に対する関心の高さをうかがわせる。『飯島晴子読本』のどの写真を見ても、お洒落な人だったのがわかる。娘達に乗せられてスタジャン買う話〔※1〕のような、女同士として、ちょっと嬉しくなる随筆もある。興味のある方はぜひ読んで下さい。
もちろん、職業人として外から美を評価する目も養われていったであろう。
そんな晴子の后への目線はシニカルではあるが、共感も含んでいる。自句自解〔※2〕では、作句の契機には触れず、女と鏡について語ったあと、「(かの)后も満足であったに違いない」と結ぶ。傍がどのように見ようと、あくまでも自己を貫き通し終えた、この「満足」に自解のすべてがある。
ところで、揚句を際立たせる「鏡攻め」という言葉は、どこから生まれたのだろう。兼題が鏡の句会だろうか。后かもしれない。それとも、句作のために、ただじっと暗闇をみつめていたときだろうか。想像をめぐらしてもわかるわけではないが、晴子は自身の作句法を次のように語っている。
「(俳句作者というものは)、いき当りばったりの手近の入口から何の予定もなく、とにかく入る」
そうそう、とにかく。俳句を作ればわかる。
「言葉がその中から現れる暗闇…(略)…を、何の資格も用意もなく突っ切って出口に出られるのは、(実績としては、出口らしい出口が見つかったと言える作品が成立することはまれではあるが)詩型の短さと、定型というカプセルの特権としか考えられない。暗闇の中で、定型の触手が全く偶然に触れた言葉を掴んだ瞬間、出口がパッと開く。…(略)… 俳句は、入口はもちろん、暗闇の中の足跡も全部消されて、突然、ただ出口だけが在るものとして在ることになる。そしてこの出口は、ここで何かが終わるのではなく、ここから一つの時空の始まる入口でもある。作品の向うに一つの世界が誘うように始まっていなければ、それは作品とはいえない。…」〔※3〕
揚句に感じる悲哀もまた、作品の向こうへ漂うときに生まれるのだろう。俳句とは、そういう詩型だ。
晴子が俳句を始めたのは昭和三十四年、揚句は四十九年の作。戦後、病弱な夫を洋裁の仕事で支え、子育てが一段落した頃、最初は夫の代理で「馬酔木」の句会に出たという。翌年「馬酔木」に参加、三十九年には藤田湘子の「鷹」の発足に同人として加わっている。人間探求派との決別である。
遅いスタートといわれる俳句との出会いの故に、ますます貪欲に、また理知的に、俳句と向き合ったのであろう。同時に、この十五年間の俳句界は実験的ともいえる俳句表現への挑戦が続いており、その渦中に晴子もいた。
この辺りのことは、「この二十年足らずの間を、私はずいぶん速く走ってきたような気がしている」と始まる「わが俳句詩論」〔※4〕によく書かれている(余談だが、ここを読むといつも < 初夢のなかをどんなに走つたやら > が浮かぶ)。
揚句は決して難解ではない。無季ではあるが、意味は明瞭で、「俳句で虚構の物語を書く( 小林貴子「飯島晴子論」)」 〔※5〕という晴子句の形のひとつである。伝統俳句の写生からはほど遠いが、連句の付句を思うと、言葉の呼び込む物語性は俳句がその成り立ちから負っている特質の一部でもある。
先般、彌榮浩樹が「1%の俳句」で『群像』の新人文学賞(評論部門)を取り話題になっている〔※6〕。論旨の是否は置く。読みはじめてまもなく「(真に優れた芸藝作品には本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずあるが) ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である」のところで立ち止まった。「ことさら」か。これがどのような句群を指すかは次第に明らかになるのだが。
昭和五十五年、晴子は俳句の衰弱を憂い「だが」と、こんなことを言っている。俳句は、ホトトギスではなく秋櫻子・誓子の路線を選び、試行錯誤を繰り返し、表現様式の異る「いくばくか」の後世に残る句を生んだ。そうでなければ「俳句は退屈のあまり死んでしまっただろう」〔※7〕
※1『飯島晴子読本』収録「スタジャンと世阿弥」『現代俳句』一九八八年
※2「自句自解」 『自解100句選 飯島晴子集』一九八七年
※3「言葉の現れるとき」『文学』一九七六年
※4「わが俳句詩論―自伝風に―」『俳句研究』一九七七年
※5『12の現代俳人論』「飯島晴子論―アナーキーな狩人」二〇〇五年
※6『群像』二〇一一年六月号
※7『俳句』一九八〇年二月号
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