真説温泉あんま芸者 第10回引用のマナー 法や規則の以前に
西原天気
『俳句界』2009年2月号より転載(全面的改稿・加筆)
■引用の自由
「コピペ・レポート」が問題化しているというニュースが一時期さかんに流れていました。学生がインターネット上の文章をコピーして、そのまま自分のレポートや論文の材料にするものです。けれども、昔も「まるうつしレポート」はありました。盗用そのものが新しい問題として持ち上がったわけではありません。
ただ、手順の点が劇的に変化しました。引き写す元ネタを見つけるのに、昔なら例えば図書館や書店に出かけ足で探すという手間がありました。ところが、インターネットには「検索」という便利な機能があります。欲しいデータを見つけるのに大した手間も時間もかかりません。引き写しにしても、コピー&ペーストで、ほんの数秒。手軽さの点で、インターネットからの盗用は画期的です。
しかしながら、考えてみれば、レポート・論文に「引用」は必須です。ものを書くとき、参考・参照を抜きにはできません。さらにいえば、私たちの言説はいつでも、他人の考えていること、先人の残したものとの関係のなかにあります。「コピペ」や「まるうつし」のレポートが問題なのは、他人の文章を借りたから、なのではありません。借りたことを記さないのが問題なのです。
引用は、基本的に自由です。引用元の著作物(ネット上の文章も含まれる)の作者に伝える必要もありません。
引用が自由でなければ、記事(作品)紹介も意見交換も論点整理も批評もスムーズには行かず、思想・文化・政治等々あらゆる局面で大きな支障が生じます。
「引用の自由」は世界共通の約束事と言っていいでしょう。裏返せば、何かを発表するときは、それが将来どこかで引用される可能性のことを思っておかないといけないということです。
ただし、ここで押さえておかなければならないのは「引用」とは何かということです。
「何か」などと言うと難しそうに聞こえますが、ざっくりと、です。おもに法的な意味で、「適正な引用」にはいくつかの要件があります。
A 著者名・著作名が明記されていること
B 出所が明示されていること(著作権法第四十八条)
C 引用先(論文・レポート等)が量的・質的に主で、引用部分が従であること
D 本文と引用部分が見た目にはっきりと区別されていること
こうした要件が満たされれば、自由な引用が許されています。
■転載と引用
あ、そうそう、「転載」。引用と転載は、ごくたまに混同されるので、こちらもいちおう押さえておきましょう。
転載は勝手にはできません。著者/制作者の許可が必要です。
例えば、週刊俳句の記事の一部を引用して、紹介する、批評する。ネット上にせよ、紙媒体にせよ、これは自由です。ところが、週刊俳句の記事がまるごと(あるいは一部が)そのまま、何の注釈・説明もなく、どこかのサイトに、あるいはどこかの雑誌に、著者や私たち運営が知らないうちに載っているとしたら、どうでしょう? ヘンですよね。
(ある時期、自動的にコンテンツを引っ張ってきて転載するブログ、ロボット・ブログとでも言うべきブログがありましたが、このところ見なくなりました。問題になったのでしょう)
最初に挙げたコピペ・レポートはさしずめ「無断転載」の合成物です。だから、まずいのです。
まとめると…
引用は自由。(先に挙げた要件を満たした)引用は自由。
無断転載はダメ。
シンプルに、こういうことです。
ネットで「無断引用禁止」という文言を目にすることがたまにありますが、これは通用しません。引用は、断る必要もなく自由なのですから。
「無断転載禁止」という文言も、たまに目にします。これは間違ってはいませんが、不要・ムダ。この文言があってもなくても、もとより「無断転載」は「禁止」なのですから。
■引用の尊重=他者の尊重
引用は自由。それはそうなのですが、その自由は、引用の要件を満たすという条件付きです。では、実際、適正な引用がおこなわれているか? といえば、そうとばかりは言えないようです。とりわけ、インターネットがらみは、いわゆるいいかげんな引用も少なくない。
インターネットが普及して10年を超えました。俳句に関するコンテンツも膨大です。玉石混淆は、従来の紙媒体と同様。引用されたり引用したりも、紙媒体と同様です。
では、インターネットと印刷物の違いは何でしょう? ひとつには、インターネットは印刷物と比べてはるかに手軽に「発表」できるという点です。敷居の高低が違います。ときとしてBBS(電子掲示板)では井戸端会議のような会話が、ブログでは日記のようなプライヴェートな些事が書き綴られています。
こうした手軽さは、ネットの長所ですが、それが災いしてか、不適切と思しき引用も数多く、とくに「出所の明示」を怠るケースが目につきます。引用の要件で挙げた「B 出所が明示されていること」、これの不備ですね。
出所は、書籍・雑誌記事もあれば、ネット上のコンテンツもあります。紙媒体であれば、著者、書籍名、雑誌名および号数の明記が必要となります。ネット上の記事を引用する場合、当該記事のURL(ネット上の情報の所在地を示す書式)によって出所を提示できます。
インターネットにはリンクという便利な機能がありますから、それを利用すれば、読者に親切です。いずれにしても、出所の明記に、さほど労力がかかりません。にもかかわらず不備、というのは、書き手が「引用」という行為について無知、というよりも、意識が希薄なせいかもしれません。引用を大切に扱おうという意識が薄いのです。
引用の尊重とは、他者の尊重です。そこをおろそかにする書き手を、私自身は、信用しません。
他者とは、まず、引用元の書き手、引用される書き手。
他方、引用にまつわる表記の整備は、読者(という他者)への配慮という面も大きいでしょう。例えば、ある記事に「だれそれがこう書いている」とあり、その一文の置かれた脈絡を確かめたくなったとしても、出所の明記がなければ、確かめようがありません。
■めだつ出所不記載
出所の明示を欠いた引用は、インターネットだけの事情ではないようです。俳句の場合、書籍・雑誌記事もまた「不適切な引用」が数多いように思います。評論賞を獲得するようなりっぱな批評文にさえ、出所記載に不備のめだつものがあるのです。
つまり、引用の扱いは、紙とネットの違いではなく、書き手によるところが大きいようです。
ネットだから、紙媒体だから、というのはウソ、というか間違いで、人による、のです。
もっとも、紙媒体の記事がネット上の記事を引く場合、すこしめんどうなことも起こります。さきほど出所がネット上の記事ならリンクで明示できると書きましたが、紙媒体には当然ながらリンクという機能がありませんし、URLはたいてい長ったらしい英文なので、記載は少しめんどうです。めんどうだから、当該記事を含むブログ名、サイト名くらいを書いておけば事足りると考えてしまうかもしれません。しかし、それでは「出所の明示」という引用の要件が満たされていません。少なくとも読者には不親切です。
ブログ名、サイト名だけなら、まだしも、なかには、「だれそれがインターネットで…」といった引用さえ見たことがあります。えらく広い(笑。これだと「出所は図書館のどこか」と言っているに等しい。
「検索で特定できるはず」と考える向きもあるかもしれませんが、引用しておきながら「読者が自分で探せ」は書き手のとるべき態度ではありません。
ブログなら「日付」で、ウェブマガジンなら「号数」で、記事が特定できます。紙幅に限りがあるとはいえ、最低限それくらいの「整備」があって罰はあたりません。
なにも、出所を明示できない参照/引用はするな、と言うのではありません。場合によっては、引きたい記事の在処がわからなくなってしまうこともあるでしょう。そんなときは、最低限の処理として「出所は失念したが」などのエクスキューズが欲しい。
こうした引用にまつわる不備の背景には、インターネットという新しく誕生した「出所」の場に、私たちがまだ不慣れであることも大きいようです。
けれども、インターネットはやがて新しいものではなくなります。本や雑誌が新しいものではなくなっていったのと同様です。法以外のルールやマナーも整備されていくと、楽観的ですが、そう考えたい。
そのときにも、書き手ひとりひとりが「引用」、そしてさらに広く「参照」(他者の言説の参照)を、いかにていねいに扱うかが重要となるはずです。
法的にまずいから、規則でそうなってるみたいだから、というだけでは、心貧しい。法律や規則を言う前に、引用・参照について、どのような意識を持つのか、それが書き手の《たたずまい》だと思います。
【補記】鑑賞の「一句」は引用?転載?
俳句作品の引用・転載という問題もあります。本稿の主旨に沿うなら、俳句の引用にも出所の明記(例えば句集名や俳誌名)が必要ということになりますが、慣習にしたがい省略が許されると考えています。
言っていることが矛盾するようですが、俳句の場合は「全文引用」であること、所載の句集から離れ一句単独で人口に膾炙する可能性があることなどをもって、散文とは区別して考えたいのです。
それより、むしろ、他人の俳句作品を取り上げる際に、「引用」ではなく「転載」と(法的に)解釈されるようになったときの不都合を憂慮すべきかもしれません。
実際、著作権の範囲と適用はその方向に向かっているようです。
例えば、一句鑑賞を例にとりましょう。引用の要件「C 引用先(論文・レポート等)が量的・質的に主で、引用部分が従であること」のうち、引用部分(一句)は、量的には「従」ですが、質的に「従」とは言えません。杓子定規に考えれば、一句鑑賞における一句は「主」であり、引用の要件を満たしていない、とも考えられます。
「引用」と解してもらえなければ、作者に逐一、「転載」の許諾をもとめる義務が生じます。そうなると、紙もネットもなく、きわめて不便なことです。
歳時記はどうでしょう。例句が並んでいます。これが「転載」扱いとなれば、編集は、気の遠くなる作業です。これを乗り越えて歳時記を作ろうなんて、誰も思わなくなるでしょう。俳句は今のところ「慣習」が優先されるべき分野なのかもしれません。
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