2012-11-04

林田紀音夫全句集拾読 238 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
238

野口 裕





取残された幾人かの明るい渚

昭和六十年、未発表句。「取残された」を「取残されたように」と取ると、以下のような光景が描けないだろうか。

昼間、あれほど賑やかだった渚が嘘のように静かになり、取残された幾人かが日中の喧噪を楽しむかのように語らっている。飽かず眺めている孤独な傍観者は、それに「明るい」と措辞を置き、それを祝福している。傍観者には決して訪れることのなかった生の一瞬として。

 

湯あがりのこころ覚えの危うさよ

昭和六十年、未発表句。風呂から上がったらしようと思っていたことを、実際に上がったらころっと忘れていた、ぐらいのことはよくある。多分忘れてしまうだろうなと思いながら、上気した気分でいるところか。成功している句だが、紀音夫の句風ではない感はある。昭和六十一年「海程」に、「湯あがりの灯に棲む鬼の幾匹か」。

 

晴れた日の並木の影を拾い行く

昭和六十年、未発表句。説明不要の簡潔な景の素描。「拾い行く」で歩行者の心理を滲ませて、句に粘りをつけている。


浴槽に深く孔雀の翅たたむ

昭和六十年、未発表句。初老の男性の自画像にしては、孔雀の翅が突飛。広げて誇示すべき翅をたたんでいるところに、心理的な屈折を表現しようとしたのだろう。ただし、自画像を離れてしまうと浴槽で戯れる女性像とも取れる。となると、CM映像あたりの影響も考えられる。

失敗している句ではあろうが、高度経済成長期を脱して文明の爛熟期にある日本と紀音夫との関係を考えてしまうような奇妙さを抱えている句ではある。

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