二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力
三島ゆかり×西原天気
■「とんでもなさ」が引火していく
天気
ゆかりさん、こんにちは。今日は「るふらんくん」や「忌日くん」など各種俳句自動生成ロボットの制作者である三島ゆかりさんからお話をうかがいます。よろしくお願いいたします。
ゆかり
はい、よろしく。
天気
週刊俳句・第285号(2012年10月7日)に掲載された10句作品「をととひの人体」のことを、まず話しましょうか。
≫忌日くん「をととひの人体」
「忌日くん」では、「るふらんくん」に引き続き、お世話になりました。今回も、私が謹んで選ばせていただいたのですが、そのときの感想。「このロボット、打率が高い!」。
下撰でどんどん取れるんです。30句ばかり取って、あとは句のバランスをとる、つまり語彙の重複を避けたりといった作業をやって、あっというまに「をととひの人体」10句が完成でした。
打率が高いということは、語彙の選択が良いということ。シロウト考えには、そのように思うのですが、語彙を選ぶとき、何か指針や狙いはあったのですか?
ゆかり
いえ、語彙は「ゆかりり」と同じです。ロボットのシリーズに特定の個人ものと単機能ものがあります。
特定の個人もの…ゆかりり、ねここ、キヨヒロー、木枯二号、このこの
単機能もの…三物くん、るふらんくん、忌日くん
です。
で、るふらんくん、忌日くんは、もともと「ゆかりり」から切り出したものなので、語彙は「ゆかりり」そのままで、無加工です。
天気
「ゆかりり」の語彙の基準は?
ゆかり
「ゆかりり」は、もともと作者・三島ゆかりの語彙として始めたものです。
天気
「ゆかりり」の「ノート」に「三島ゆかり本人がいかにも詠みそうな身体部位呼称、住宅用語、科学用語、音楽用語、地名、人名などを語彙として多く含んでいます」とありますね。
ゆかり
その後、沖らくださんの題詠100句にもロボットで参加し、そこで語彙が増え、これは使えないな、というのを削り、今に至っています。題詠100句は漢字一字の出題も多いですから、そのとき選んだ熟語は作者の趣味です。
天気
語彙が使い回しだとすると、三島さんの語彙と忌日くんシステムの相性が生み出したクオリティということですね。
ただ、今回、驚いたのは、「忌」という一字の威力です。モノやコトに「忌」をつけると、とんでもないものになってしまうという。一種のモンスター化。
ゆかり
そうですね。手に負えない怪物を作ってしまった博士の心境です(笑)。
天気
「忌」には一定の湿度があります。あるいは歴史性も。人名以外の語をあてるとき、例えば獺祭忌ですね、それにしたって歴史性や湿度(情緒)が意識されている。例えば、木枯さんなら、晩紅忌と呼ばれることはあっても、ちんどん忌とは絶対言わないでしょう。
ところが、忌日君は、歴史性や湿度とは程遠い語彙に、委細構わず「忌」の一文字が付く。そこがまずもって突拍子もない。
その、ナントカ忌の「とんでもなさ」が第一の爆発になって、そこから他の語にどんどん引火していく感じです。
ゆかり
同じ語彙でも「三物くん」や「ゆかりり」はすぐ引火しないのです。やはり「忌」の威力なのでしょう。
■ノウハウ化してしまった忌日俳句
天気
「忌日くん」のノートを見ると、忌日季語の安易な取り合わせに対する批評・批判が、まず三島さんの動機にあったことはわかります。
少し長くなりますが、当該箇所を引用しておきますね。
歳時記にはあまたの忌日が季語として掲載されています。忌日とは本来、特定の個人が亡くなった命日や、災害などで多くの人が亡くなった悲惨な日を偲ぶためのものだと私は考えるのですが、俳句実作の現場では必ずしもそうではありません。しばしば忌日が、他の12音のできた後の埋め草として、「他との兼ね合いでどうしても季感を出したくないときは忌日」というまことしやかなノウハウとともに使われるのを見てきました。故人にとってはたまったものではありません。/「忌日くん」はそのようなノウハウを骨抜きにし、人名でないものをもとに「失恋忌」「くちびる忌」といった忌日をランダムに生成します。なるほど、「まことしやかなノウハウ」。動機がよくわかります。しかし、「『忌日くん』は不謹慎ではないのか」と問う人もいそうです。
ゆかり
いえ、歳時記を見ながら音数だけで誰だかも分からずに「蓮如忌」とか詠むのに比べれば、私の尺度ではぜんぜんOKです。
天気
ところで、忌日俳句って、ふだんは、まず作らないのです。むかし「四童珈琲店」というサイトで何年か恒例で忌日句会をやっていましたね。あれでつくったくらい。なぜ作らないのかといえば、作っていて面白くないから。季語を斡旋するにしても、別の季語の中から考えたり迷ったりしたい。三島さんは、どうですか?
ゆかり
よほどビッグネームか、パーソナルに自分が影響を受けていると感じる俳人については詠むと思いますが、歳時記をめくって忌日を季語として選ぶことは絶対にしませんね。
天気
忌日俳句は、読むぶんにも、ほとんど反応できません。忌日の句は、そもそも何がしたいのか、いまひとつわからないというのが私の感想です。
ゆかり
ところで「毎日が忌日」とかいうサイトがありますが、どなたが運営していらっしゃるのでしたっけ?
天気
あわあわあわ。私がつくりました(笑
ゆかり
八田木枯さんの句、
春なれや生きて忌日にかこまるる
という句は特定の誰かの忌日を詠んだわけではありませんが、誓子忌~三鬼忌~虚子忌と続くあの時期についての、万感の思いを感じます。
天気
なるほど。あとは、
誰の忌ぞ雪の匂ひがしてならぬ 木枯
メタ的です。
ゆかり
はい、すばらしいです。メタ的ともいえるし、ものすごく原初的な感覚のようにも思えます。
■空撓(そらだめ)という「冒険の方法」
天気
ロボットそのものにも少し触れましょうか。ゆかりさんは、「ロボットという愉しみ」という記事を『週刊俳句』に書いていますね。
私たちは発想がマンネリ化すると、袋回しなどで時間的に追い詰めることによって、偶然性で現状を打開しようとします。そこへ行くとロボットたちはまったくタフで、そもそも人間には発想できないような句を無尽蔵に繰り出してきます。この「人間には発想できない」という部分、ロボットの威力が突出して発揮されたのが、今回の「忌日くん」ではないかと思います。
Haiku Driveさんがツイッターで、こんなことを言っていました。
語彙の間に適当な(詩的に思わせる)飛躍があって、なおかつ俳句らしい構文を採用すれば俳句っぽくなってしまうの法則。このうち「感性」という部分は置いておくとして(人間はそんなものを使っているのかな?という考えがあるので)、実際のところ、「忌日くん」は恐ろしくて、人間が飛躍を狙った句を作るより、よほど面白い句を作る。
作者の感性抜きでも詩は作れるんじゃ?という恐ろしい問いを投げかける「忌日くん」…!
このツイートでは、「ロボットでもできる」という人間を上に置いた捉え方が言外に読み取れますが、私はむしろ、「忌日くん」を上回るような句をつくることは、人間には難しいのではないかと思っているのです。
ゆかり
各務支考という芭蕉の弟子が付合について七名八体というのを整理しているのですが、「空撓(そらだめ)」というのをご存じですか。
天気
いいえ、知りません。google先生によれば、「七名八体にいう八体の員外として、付所の不分明な付け方」ですね。
ゆかり
おお、さすがgoogle先生です。いえ、実は、私も最近、「鷹」の1997年6月号の記事で山地春眠子さんの『二物衝撃の実践的メモ』というのを手に入れて、それの受け売りなのです。
山地春眠子さんの記事の孫引きとなりますが…
昔の人は「ひたすら目をふさぎ吟じ返すに、ふと其姿の浮びたる無心所著の体」(『俳諧古今抄』)と表現しました。二つのイメージ間に断絶(飛躍)があって、常識的かつストレートには両者を結合できないようなものを配合する方法です。つまり、其人・其場といった連続しやすいイメージを拒否する、冒険の方法。で、山地春眠子さんは例として《万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや》を上げています。
天気
え? その場合は、きちんと付いているのではないですか。「引力」で「窪み」ですから。
ゆかり
いちおう、山地春眠子さんの説明を引用すると…
「万有引力」という言葉から読み手が広げるイメージはさまざまでしょう。ニュートン、リンゴ、ロケット、物理学、天文学、さらには男女の関係まで……。しかし、そのすべてを飛び越して突然、馬鈴薯のくぼみが出現した時、しかも、「あり」のリフレインによって両者が連結されて読み手の中に放り込まれた時、その意外性は頂点に達する。思いがけぬ二物の連結で自分のイメージの境界を破壊され、それが面白いと感じた読み手は、ここで呵々大笑するでしょう。(以下略)天気
ううむ。そうですか。この句は好きな句ですが、不連続ではないし、イメージの境界線は破壊されてないと思いますけどね。
ゆかり
これを「付いている」というのは、それから15年経った俳句環境ですっかり二物衝撃に慣れ親しんでしまった、私たち、すれっからしの感性のような気がします。
天気
「付いている」という言い方が強すぎるなら、言い換えましょう。つまり、人間業の範囲ということです。それと、離れているのが必ずしも良いとは考えていません。念のため。
ゆかり
その「人間業の範囲」というあたりから、ロボットの話にスライドさせた方がよいかもしれませんね。
天気
はい。ざっくりいえば、人間の考え方をしないロボットだから、人間の考え方の限界をやすやすと超えられる、ということでしょうか。機械は、「ひたすら目をふさぎ吟じ返」さなくとも、「空撓」できちゃうってこと?
ゆかり
山地春眠子さんが、「空撓」について述べ始める前にイントロがありまして、飯島晴子さんの発言を引用しています。引用大会となりますが…
かつて飯島晴子さんに、こう教わりました。「二つのイメージが離れすぎていると、読み手は結局、論理で二つを繋がねばならない。そうなったら、句は理屈になる。読み手に理屈を感じさせてはダメです」と。つまり「理屈以前」にアッという間に読み手を別世界に拉致する力こそ--と、飯島さんは言いたかったのだと思います。天気
なるほど。離れすぎていてもダメ。これは納得ですねえ。「この人、なんか難しいことをしようとしているのか? 難しいことを考えているのか?」と思わせたらダメ、ってことですね。
ゆかり
山地春眠子さんの記事はもちろん、人間が二物衝撃の俳句を作るためのメモなんだけど、こうして読んでいると、それがそのまま俳句自動生成ロボットの存在根拠の説明であるかのような気がしてきまして、…。
天気
「忌日くん」も、つまりは取り合わせなのですが、取り合わせの実験を、効率的にできるということ。でも、これを言うと元も子もないのですが、「これがいいあんばい」と選ぶのは人間。今回の句は、例えば、私が選んだ。別の言い方をすれば、ロボットは、作れるが、読めない、選べない。
ゆかり
あ、それ、禁句。ロボット差別。
天気
えっへん。10句選んでやったのは私だ!
ところでこの記事(↓)も、今回の話題にすこし関係するかもしれません。
≫比喩をめぐって【後編】とりはやし vs 野蛮の二物 こしのゆみこ句集『コイツァンの猫』を読む 高柳克弘×西原天気
ゆかり
なるほど。ロボットの第一号が「ねここ」だったこととの暗合にくらくらします。こしのゆみこさんにはスロットマシンとかロボットとかを惹きつけてやまない妖しさがあるようです。
でも、結局のところ、「るふらんくん」や「忌日くん」を含め「ねここ」型ロボットというのは、そこまで仕込めばそれなりの句を詠むでしょう、という程度のおもちゃですから。
天気
しかしながら、その「それなりに」というレヴェルがなかなかのものなんですけれどね。
そろそろにしましょうか。俳句ロボットを分析し始めると、「脱魔法」を招きかねない。まだ、もう少し魔法の中にいたいです。俳句ロボットのファンとしては。
ゆかり
どこかの大学あたりでは真剣に俳句自動生成を研究されている方が多分いらして、そういう分野では日本語形態素解析技術やテキストマイニング技術を駆使して自己学習機能や共起表現機能を有するものがあるのではないかと想像します。
今回はそのような先端技術に無縁なおもちゃにすぎない「ねここ」型ロボットを取り上げていただき、ありがとうございました。私のおもちゃではなく、先端技術の風を感じるような真の俳句自動生成ロボットの記事をいつの日か「週刊俳句」で拝見したいものです。
天気
ぜひとも掲載したいですね。それではこのへんで。どうもありがとうございました。
≫俳句自動生成ロボット型録
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