2012-12-09

【週俳11月の俳句を読む】関根誠子

【週俳11月の俳句を読む】
すべての日を日常として

関根誠子



顔ちがふやうにも見えて芒原  森賀まり(「左手」より)

芒原はただでさえ幻想的であるが、そこに風が吹き光があたるとますます妖しい別世界に迷い込んだ感じがする。視界が急にモノクロームのようになるのだから当然か。柔らかな穂芒、風、光、空・・・脳の眠っていた場所が少しづつ呼吸を始める。あなたも私も同じではいられなくなる。

草枯やかたぶく船に近づき行く 同

もしかしたら東北被災地のどこかの海岸で詠んだ句であろうか。「草枯」は「枯草」とは違って、秋から冬に向かうに連れて、青かった草が日に日にその色を剥がされるように枯れ進んでいくといった哀れさがある。草にはやがて春がめぐって来るだろうが、座礁して傾いてしまった船には何が待っているというのだろう。


後ろから自転車枯れてくる真昼  中島いづる(「秋熟す」より)

この句はとても好きだ。「枯れてくる」のは「真昼」であると受け止めたい。自転車にさっと追い抜かれた後の、冷たく乾いた光と空気感を「枯れ」と捉えたセンスは素敵だ。この句のできたきっかけは、自分を抜いて行った自転車か乗っている人、あるいは両方の様子が、すこし油切れでもしているような印象だったのかもしれない。でもそうでなくとったほうが俳句としてだんぜん良い。

鉄臭の残るてのひら秋惜しむ  同

仕事には匂いがある。実際の匂いの場合と雰囲気としての匂いのこともあるが、作者の仕事は鉄の匂いがするのか。自分の生業の匂いのするごつごつとした手をしみじみと眺め、束の間を愛しむ。「秋惜しむ」で一枚の自画像が出来上がった。


姫松明殿より先に燃えあがる  谷 雅子(「雨の須賀川」より)

須賀川の祭りの松明には「姫」と「殿」があり、たいていの場合は姫のほうが殿より小ぶりにできているので火もつきやすいのであろうが、そういう理屈はなしにして、姫が殿より先に燃え上ってしまった!というドラマを楽しもう。

松明あかし背に睦言の果もなし  同

祭事を見る群衆の一人としてゐるとき、ときどきこんなことに出くわす事がある。くだらないと思いつつ、目の前の祭事よりついつい後ろの二人の話に耳がとられてしまい、肝心な事は上の空に。いい加減にしてよとうんざりしながら、頭の中ではすっかり睦言に加わって茶々を入れている自分にまたうんざりしている。諧謔味のある句。


しぐるるや棺の中にある隙間  石原ユキオ(「狙撃」より)

お別れをするために近づいた棺には確かに体を取り巻くように程よく隙間があった。そこは後で色とりどりの花や死者があの世に持っていくもので一杯になるのだが、空間があることで棺に納められた死者のその人らしい肩の形や手足などが感じられ、そこから生前の姿を人それぞれに思いだすことができる。死者と生者、両者の永久の別れの悲しみが時雨の切ない音の中で交り合う。

トランシーバーまづ咳を伝えけり   同

咳の出るタイミングはいろいろだ。咳をしてはいけないと思う場面で出てしまって困ったりすることも多い。声を出そうとしたり、そのほかのことでも人が何かをしようとする時、あるいは必要で無意識の行動だとしても、身体はそのために必要な手順を踏んで動きを起こすためのサポートの準備を始める。それがたまたま咳をすることだった。風邪気味の勤務か、あるいはずいぶんと埃っぽいところからなのか、何か現場の大事なことを伝えようとしているのに、トランシーバーに最初に咳が入ってしまったというちょっと切ない場面をくっきりと表現している。ロボットだったら多分ありえない。


枯れ葉転がる音の快晴   矢野錆助 (「緑青日乗」より)

全体に暗く重い作品のなかで、この一句だけは少し明るい。人は自分と同質なものにひどく敏感になるものだが、この日は阿呆くさいほど晴れていて、機嫌よく転がっていく枯れ葉の様子に作者も思わず引き込まれて、ほんのちょっとだけ明るい気持ちになったのだろう。

銚子倒れた空っぽ  同

倒れた銚子の中を満たしている「空っぽ」。その外側をさらに大きな「空っぽ」が覆っている。ふたつの「空っぽ」を分けている銚子の存在はどうだろう。その質感、大きくはないが確かな重さ・形が紛れもなく現実の存在としてしっかりと見えてくる。銚子は「空っぽ」に形を与えてくれていたのだ。


第290号2012年11月11日
森賀まり 左手 10句  ≫読む

第291号2012年11月18日
中嶋いづる 秋熟す 10句  ≫読む 
谷 雅子 雨の須賀川 10句  ≫読む 
石原ユキオ 狙撃 10句  ≫読む

第292号2012年11月25日
矢野錆助 緑青日乗 10句 ≫読む
 

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