2012-12-09
朝の爽波45 小川春休
45
さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十六年」から。今回鑑賞した句は、昭和56年の秋から冬にかけての句。56年11月には京極杞陽が逝去しています。爽波は「青」と「俳句とエッセイ」に追悼文を執筆していますが、その後、半月ほど病臥しています。学生時代から非常に世話になった先輩の逝去に、気落ちしたのでしょうか…。
仲秋の金蠅にしてパッと散る 『骰子』(以下同)
蠅だけなら夏季だが、秋の蠅となると、夏の頃の元気を失い、勢いなくそこらを飛び回る。これが一般的、歳時記的な理解だが、爽波はその水準よりも季題を深く多面的に捉えることを唱えた。秋の蠅も「仲秋の金蠅」と言い表されると、途端に颯爽とした精悍な表情となる。
秋の水耳のうしろを掻きながら
秋の水は曇りなく、透明。それを見ながらふと、気付けば耳の後ろを掻いている。痒くてしょうがない様子でもなく、水の美しさに心の奪われるままに、無意識のうちに耳に手をやった、そんな風情だ。無意識の行為を自然に詠み込み、実感あるものとしている。
葭障子洗ひ仕舞はれ月の蔵
葭障子は葭戸に同じく、葭簀を張った戸。夏の間、障子などの代わりに使う。葭障子を洗うのも納めるのも日中だろうから、眼前には月と蔵とがあるばかりだが、まさに今日葭障子を洗って納めたという清々しさはまだ心中に生きている。時間の奥行きを持った句だ。
干す蒲団ふり廻したり蘆を前
蒲団の干し方にも人それぞれ流儀があろうが、掲句の干し方はかなりダイナミック。干している御仁にも、生活で培われた逞しさが感じられる。群れ並ぶふさふさと豊かな蘆の穂、それに向き合うような暮らしを生き生きと描き出しながら、重みをも感じさせる句。
懸崖の菊の間に犬の顔
沢山の小菊が垂れ下がり、黄金や桃色の水が流れて落ちるように仕立てられる懸崖菊。家庭での栽培は難しいのでいずれかの菊花展であろう、複数の懸崖菊がずらりと並んでいる。いかにも立派な懸崖菊の間からひょっこり覗いた犬の顔が、見る者の気もほぐしてくれる。
招き猫水中の藻に冬がきて
それでは招き猫に冬は来ていないのかというと、来ているには来ているのだが、招き猫はそれを表情には出さず、焦点の定まらぬ眼を見開いているばかり。いち早く冬の訪れをその佇まいで知らせてくれる藻と招き猫との存在感のギャップが、互いを際立たせている。
天ぷらの海老の尾赤き冬の空
天ぷらの盛合せでは、大抵海老がその中央に配され、他の具を下敷きにして尾を高く掲げてあることも多い。季語「冬の空」から曇天を思うか晴天を思うかは読みの分かれる所だが、ぴーんと張り詰めたような雲一つない冬空と海老天の赤い尾との対比と読みたい。
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