2013-06-16

真説温泉あんま芸者 第11回 きょう句会がない人も毎月土日がぜんぶ句会で埋め尽くされている人も 西原天気

真説温泉あんま芸者 第11回
きょう句会がない人も毎月土日がぜんぶ句会で埋め尽くされている人も

西原天気


このあいだ、ツイッターでこんなやりとりがありました。
http://togetter.com/li/518666


いかがでしたか? 短時間で終わったやりとりでしたが、こういうふうに、ざっくりと「句会」が語られることは意外に少ない。「ざっくり」というのは「根源的に」という意味でもあるのですが。

句会と俳句の関係について、例えば、「句会がなくちゃ俳句は生き延びていけない」(@micropopster)かどうか、といった問いには、私自身、それほど関心はなくて、「座」の機能、「座」の観念みたいなものを重視する人は、「イエス、句会がなくちゃね」と答えるだろうし、一方、句会にいっさい出ずに句をつくる、それも抜きん出て素晴らしい句をつくる人も、きっといる(攝津幸彦は句会に出なかったんでしたっけ?)。

俳句というものを知るきっかけとしては、どうでしょう? まず句会で知る人もいれば、句会よりもまえに「読者」として知る人もいる(卑近な例では前者が私、後者が上田信治さん)。

ま、いろいろですな、と、これでは何かを言っていることにはならないのですが、何かを言う気はあまりない。最初に上げたツイッターでのやりとり(これを「トゥギャり」と言います)を紹介するのがメインですから。

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ひとつ思うのは、「句会」とひとくちに言っても、それぞれ《体験》が違うから、違うものが想定されている可能性が高い。「そんなこと言ったら、なんでもそうじゃないか」と言われそうですが、そうでもない。

というのは、「句会」はなかなか客体化・対象化できない。俳人・俳句愛好者が「句会」というとき、それぞれが句会の成員(メンバー)としてしか語れない、というところがあります。

それはそれでいいのですが、ややもすると、発話者/論者の(ある時点での)句会観が、もっと具体的には、その人が句会に(ある時点で)どのような機能を期待しているのかが表明されるに過ぎないところがあります。結局は、ま、いろいろですな、ということになってしまうわけで(もちろんそれはそれでいいのです)。

でね、なぜ、それでいいかといえば、「句会とは?」の窮極の述部・最終的な正解を求めて句会をやったり俳句をやったりしている人はいないのですから。

だから、このクソみたいな記事(自分で言っておきます)には、結論も展開もありません。

きょうこれから句会がある人にもない人にも、何の役にも立たないようなことを、断章風に、暇そうにおしゃべりすることにします。

〔追記〕社会学者、文化人類学者、あるいは批評家が「外」から「句会」を研究すれば、別の切り口も見つかるでしょうが、そうしたものは、想像するに、ものすごくつまらなそう。

〔追記〕歴史的アプローチで相対化していく作業は、考えられますね。「子規のやってた句会の雰囲気って、うちらの句会に近くね?」とかなんとか(≫参考記事リンク)。

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いろいろな句会に出たことがあります(といっても、人に比べてどうかはわからない)。

公民館でやる句会(なかでもとりわけベテランが多い句会)では、菓子類が皿かティッシュの上にちょっとずつ載せて全テーブルに配置される。

(句会あるある)

こんな感じ(≫参考資料

煎餅をぽりぽりやりながら清記に目を通すが、通(つう)の所作。

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短冊のりっぱさと出てくる句の程度は、反比例する。つまり、短冊がりっぱな句会ほど、句がつまらない。原因はおそらく「句会に入れ込みすぎ」。

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この記事、本気で読んでいる人、まさか、いませんよね。

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俳句に興味がなかったのに句会のまっただなかに座るハメになり、それが俳句を始めるきっかけだったというのは、あっ、私の場合ね、人とはちょっと事情が違っているだろうと思います。促されるままに初めて句を作り、選句の段になり、並んだ句のなかに「四万六千日」という語を見て、選句用紙の端っこで割り算、126年かあ、長いな、と、これくらい俳句について無知(というよりも全般について無知)だったのですが、その日以来、ずっと俳句を続けているのですから、「句会」との幸運な出会いをしたとはいえるでしょう。初めての句会が、その句会でなかったら、俳句を始めることもなかったと思います。

いま思い出してみると、そのとき、何に感心したかというと、合評の際の熱気というか混沌というか妙な盛り上がりというか、「こんなもの(というとヘンですが)に、大のオトナが!」とびっくりしたですよ。そのことがたいへんおもしろくて、次の月もその句会に参加。で、その次の月も。で、気がついたら、現在です。

というようなわけで、私はとても「意識の低い」俳句愛好家です。おもしろいからなんとなく続けちょります、としか言いようがなく、「意識の高い」俳人を見ると、ちょっと恐ろしくて、距離を置くようにしています。

(概して、句会偏重な人は「意識が低い」と見られがちです)

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http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/06/5_659.html

 「句会浄土」「句会穢土」とここでダジャレておくこともできます。

句会は苦海?

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少し無理のある譬えかもしれないが、句集を読んだりするのがCD(アルバム)を聞くことなら、句会はジャムセッションに参加する感じか。出来上がった音楽を聞くのと音楽/俳句が生まれる現場にいることの違い。

後者は、そりゃあ興奮しますよ。人の演奏が聞けて、自分でも音を出すんだから。「句会、サイコー!」てなって不思議はない。

でもね、出来上がったものの豊かさや広さを知らずに、現場の臨場感やみずからのプレイを楽しむだけというのは、やはり何か欠けている。貧しい。

俳句を知るきっかけは句会でもなんでもいいけれど、「他にどんなんがあるんだ?」と意識を広いところへ向けないとね。それは音楽でもおんなじでしょう。

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句会は楽しいです。そんなことは句会に出たことのある人なら全員知っている。でも、句会は句会。俳句を楽しむことのほんの一部です。

 

ところで、句会での営みが、そのまま作品になるわけではありません。ここで言う作品とは、どこかに発表したり句集に収めたりする句のこと。句会の句は、作品以前、発表以前なわけです。

句会での営み→(A)→作品としての発表。この(A)は、捨てたり、いじったり(推敲)という部分。この(A)が存外大事で、負荷がかかる、しかもおもしろい作業。(A)こそがその人の良さやその人らしさ(これを「作家性」と呼んでもいい)を決める重要な成分なのではないか、と、つねづね思っているのです。

(A)を軽視する、負荷をかけないのは、手癖で楽器を演奏しているだけみたいなもので、それで相手を楽しませられるのは、よほど名人だけです。

 

大人数の句会があります。結社の句会に多いのでしょうか。何十人も(場合によっては100人以上?)参加する句会。私にはそういう句会に出る機会がないのですが、あったとしても、行きません。度を超えてたくさんの句を一度に読むのは勘弁です。しかも、ほとんどはゴミのような句でしょう?(そんなにたくさん集まる句会ですからね)。そんな目にあったら、俳句のことが嫌いになってしまいそうです。

その意味では、結社の主宰は毎月毎月膨大な句(繰り返しますがほとんどはゴミのような句)を読んで選んで、よく俳句を嫌いにならないものだと、これは冗談ではなく、本気でマジメに思います。よほど俳句のことが好きなのか、他になにか理由があるのか。そのへん一度どなたかに聞いてみたい。逆に、それができるからこそ主宰が務まるということかも、です。

 

「句評を求められたとき、なんと言っていいかわからないような句だから、選ばなかった」。これはもう本末転倒ですが、実際、句会で聞いたことのあるセリフです。

私は、モンドな句(モンド≫google)に異様なほどに惹かれる性向があり、なんと言って褒めたらいいのかわからないような句は、採ります。だって、妙な句って、貴重じゃないですか?

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そういえば、昨日の土曜日は句会だったのです。個人的に「にわとりの丸焼き句会」と呼んでいるその句会は、にわとりの丸焼きが美味しい句会で、昨日の鶏さんは、肛門にレモン(脚韻、踏んでおきました)。

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きょう句会がない人にも、毎月土日がぜんぶ句会で埋め尽くされている人にも、次の句会で、素晴らしい出会い、素晴らしい体験が訪れることを祈念しつつ、これで終わりにします。

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