2013-07-14

【週俳6月の俳句を読む】夢の淵にて 五十嵐秀彦

【週俳6月の俳句を読む】
夢の淵にて

五十嵐秀彦


1. 村俊一「しろはちす」を読む

  蜃氣樓臭きを奥の間に通す  村俊一(以下同)

これから始まるものが一場のモノカタリであることを、この句が読者に伝えているようだ。
どこからか蜃気楼の臭いをまとったモノがやってきて、アルジはそのマレビトを静かに奥の間に誘い入れる。
「しろはちす」のモノカタリは、そんなアルジとマレビトのお話である。

  未亡人下宿春雷鳴りやまず

未亡人下宿があるような町内が舞台だ。鳴り響く春雷が、かえって静まりかえった風景を際立たせている。
もうこの町はない。時代の変遷の中で消えてしまった町の幻影、作者を育てた子宮のような町の風景が遠近の狂った舞台の書割のように続いている。

  柏餅われら赤胴鈴之助

  春晝の鞠つきしまゝ老いしとか

その路地の幻影を、駆け抜けてゆく赤胴鈴之助の自分がいる。そして鞠をついて遊んでいた少女たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
記憶は少年のまま少女のままの姿で、路地の板塀にまるでヒロシマの影のように灼き付けられているのだ。

  覺めぎはのかうかうとしろはちすのしろ 

夢は覚めた。昭和の路地はその輪郭を曖昧にしたかと思うと、ぐらりと揺らぎ、一瞬のうちに遠くに消え去ってゆく。そのとき脳内に投影された「しろはちすのしろ」。夢と現実の境界線に咲く蓮の花なのである。
間村俊一さんは高名な装幀家で、私が8月初めに出版する予定の句集の装丁も間村さんのお仕事。俳人でもあるとお聞きしていたので今回作品を読むことができてうれしかった。美術家のセンスの光る俳句だ。


2. 永末恵子「するすると」を読む

10句どれもひとすじなわには読めず、おいしそうなので口中に放り込んではみたものの、ひっかかって飲み込めない、そんな印象。
梅雨空ってこんな感じなのかなぁ、とか思う。しかしそれも的外れだ。
言葉のコラージュが次元を軽々と超えて、写生からは到底たどり着けないナマナマとしたイメージが句から匂ってくる。
得体の知れないものに触れた指を、ふと鼻先にもってゆく、そんな感じだ。

  男から男へらっきょ透きとおる  永末恵子(以下同)

「男から男へ」と「らっきょ透きとおる」の間にある黒い溝を覗き込んでみると、映写室から銀幕を眺めているような風景がチラリと見える。無音の人影が揺れる。記憶の奥底に畳まれていた会話がふと蘇る。

  酢と塩とあとしらなみのほととぎす

「あと」という魔法のタクトを一振りして、音楽は鮮やかに転調する。それはキッチンからいきなり歌舞伎の舞台へ、というほどの転調だ。なぜ歌舞伎?ああ「しらなみ」か。しかしおそらくその転調の先は作者にとって十分自覚的に誂えられた舞台なのだろう。

  足して引くそれだけのこと水羊羹

「それだけのこと」と言っても、どれだけ足してどれだけ引いたかによっては、プラスになったりマイナスになったりするだろう。毎日毎日、朝から晩まで一日中、そう一生の間、私たちは足したり引いたりしている。泣き笑いの算術だ。
水羊羹をパクリと食べて、一口お茶を飲む。さて、私は何を足して何を引いたのだろうか。

  陶枕に穴遠くから人がくる

村俊一さんの最後の句と同じように、永末恵子さんも眠りを連想する句を末尾に置いている。
陶枕にはいろいろな種類があるらしいが、いずれにせよ中は空洞になっているので多くはどこかに穴が開いている。
作者が夏のひととき陶枕に頭を置き、うたた寝を楽しんでいると、肉体を遊離した魂が枕の穴を覗んでしまった。すると遠くからやってくる人影が見える。
片手にお土産らしき包みを持って、日盛りの道をゆらゆらとやって来る。
あなたは誰ですか。作者は夢の中で問いかける。
「やあ、お暑いですなぁ、恵子さん!」
のっぺらぼうの男の声が聞こえた。



第319号2013年6月2日
閒村俊一 しろはちす 10句  ≫読む

第320号 2013年6月9日
石井薔子 ワッフル売 10句  ≫読む

第321号 2013年6月16日
秦 夕美 夢のゆめ 10句 ≫読む

第322号 2013年6月23日
永末恵子 するすると 10句 ≫読む

第323号 2013年6月30日
飯田冬眞 外角低め 10句 ≫読む

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