2013-07-14

後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』を読む 西原天気

後衛の魅力
澤田和弥句集『革命前夜』を読む

西原天気


いったいなにがあったというのでしょう。

  とびおりてしまひたき夜のソーダ水  澤田和弥(以下同)

女性にフラれでもしたのでしょうか。男が飛び降りたくなるのはそんなときくらいですから(暴論)、おそらく図星ですが、かかる状況を決定づけるのが「ソーダ水」です。

ただごとではなく、のっぴきならないこと、飛び降りてしまいたいことは生きているかぎり多々あります。「重いもの」のない暮らしなど、ありえない。だからといって、重くれを重くれのまま、読者に慰撫をもとめるのは、俳句作者が為すべきことではないでしょう。そこに、ちょっとした身のかわしや配慮を効かせる。それが俳句として、そして人としての仁義であり美徳です。

ソーダ水の軽さ、透明感が、作者の配慮であり、読者にとっての救いです。

といって、かなしみを少なくするのではありません。この軽み、透明度がむしろ私たちをかなしくさせるのです。

  東京に見捨てられたる日のバナナ

この「バナナ」もまた「ソーダ水」と同様の働きです。かなしいのに、打ちひしがれているのに、なおもソーダ水とかバナナとか、そんな、ある意味、素っ頓狂なものを健気に口にする人には、心を寄り添わせたくなるものです。

  新幹線迅し水虫は痒し

東京を追われて(勝手に決めつけ)乗る新幹線。いくら痒くても、靴脱いで靴下脱いで、足の裏ポリポリ掻いたりしちゃダメだよ、隣の人に迷惑だから。……あっ、ダメだよ。ダメだって言ってるのに、あああ、脱いじゃったよ、この人。



ところで、この句集の作者、澤田和弥氏は、小誌『週刊俳句』にたびたび寄稿いただいているし、以前からお名前は存じ上げている。ただ、直接お会いしたことはない。と思う(もしお会いしたことがあったとしたら、私の失念で失礼なことだから、落ち着いて思い出してみたが、ないと思う)。

句集について書くのに、面識の如何などなんの関係もない。なのに、こんなことを言うのは、どうも、この句集、読んでいると、こちら(読者)のすぐ近くにまで迫ってくるときがあって、「肌寄せてくんじゃねえよ、暑苦しい」と軽口を叩いてしまいそうになる。だから、この記事を書いているときも、よく知っている人のような気になってしまいそうなのだ。

「知り合いのような書き方をしていますが、じつはお会いしたことはないのです」ということを言っておきたい。



なさけないこと、なんでもないことに、かなしみが滲む。それもこの句集の特徴でしょう。

  階段を昇る春灯を仰ぎつつ

  風船を割る次を割る次を割る

  鉛筆のほのかな甘味寒日和

ここにあるかなしみは、そんなに上等なものではありません。けれども、だからどうした?

あるいは、このような句。

  村上龍村上春樹馬肥ゆる

読書の秋、馬肥ゆる秋、という浸透パターンを逆手にとって鮮やかな季語。仮に「燈火親しむ」などとしたら最悪。それを考えれば、「馬肥ゆる」がいかに効果絶大かがわかろうというものです。

シニカルな風味の句は多くはありませんが、いいアクセントになっています。

  友の友知らぬ人なり年忘れ

ありますよね。このときの気分の微妙なことといったら、もう。

だからときどき、いたたまれなくなって、はっちゃけます。壊れます。

  シンバルのどひやんどひやんと秋行きぬ

  太宰忌やびよんびよんとホッピング

「どひゃんどひゃん」とか「びよんびよん」とか、途方もなくプリミチブな擬音に、こちらとしては苦笑するしかないのですが、そのうちやがて、素直に笑ってしまっていることに気づき、自分としては心外だが、ありがとう! という感じ。

繰り返しますが、かなしいことなんて、あたりまえにたくさんあって、重苦しいものなのですよ、この世は。すべてはそれが前提なので、悲しむばかり、重くれるばかりでは、話にも俳句にもならないのです。

  マフラーは明るく生きるために巻く

カッコつけるのではなく、明るく生きるためなのだ、と。

とても、いいです。この態度は。

明るく生きることは、きわめて頼りなく細い線の上を、微妙なバランスでよろよろと歩くようなものですね。



さて、ここまでにしておけば、この句集の魅力の一端を無難に伝えて終わる、ということになるのだろうが、もうすこし話題がある。

句集を褒めるところだけ読みたい人は、あとは読まないでおくことをオススメする。



澤田和弥氏といえば、俳句世間(のこの界隈)では「エロ」で知られる人です。

エロティシズムなどといったブンガク的なものではありません。セクシャルなモチーフといった傾向・趣向でもない。バレ句と呼べるほどの仕掛けもない。単なる「エロ」。そして器官的というより皮膚的で、日本的に湿潤を伴う。それが澤田氏の「エロ」のイメージです。

さて、これ、ご自身の作に「エロ」が顕著であるだけならよいのですが、しばしば他人の作も「エロ」な読解(誤読)へと牽強付会、この狼藉を問題視する向きもあります。

というわけで、この句集にもさぞかし、と読んでみると、その成分はあまり濃くありません。数えてみると(なに酔狂なことやっているのでしょう、私は)、10句に満たない。それも《恋猫の声に負けざる声を出す》など無難に俳句的な処理をほどこしたものが中心です。

《中年の女を愛す余寒なり》は前半、せっかく不潔なのに、季語でカッコ良がってしまっています(いやむしろ、このカッコつけた季語こそが不潔で素晴らしいという意見もありそうですが)。

余談ですが、集中、カッコ良がるときに「寒さ」「余寒」といった低温度の季語を持ってくるパターンが見えました。ただし、これは澤田氏だけの傾向ではなく、俳句世間一般、「気温を下げる」ことで、気分に格好をつけるという、これはもう習わしのような退屈が繰り返されています(自戒を込めて)。

なお、エロとは少し違って、ほんとうに心底気持ち悪い《接吻しつつ春の雷聞きにけり》という句もあります。

結論的に、エロ関係は出来栄えの点でほぼ全滅。ただ、《正義の味方仮面のみにて裸》のみが成功の部類でしょうか。

澤田和弥といえばエロ、と衆目の一致するところであったこの作者の第一句集です。これが名うてのエロで知られた澤田氏の句集なのかと拍子抜けしそうになりますが、考えてみれば、あまりこれが前面に出ても、こちらとしてはどんな顔をして読めばいいのかわからないので、期待するほうが間違っていたのかもしれません。



句集のタイトルについても少し書いておきます。

句集について、その書名(句集名)をとやかく言うのは、あまり意味がないのかもしれません。しかしながら、この『革命前夜』というタイトル、そして帯に大きく記された表題作の《革命が死語となりゆく修司の忌》については、この句集の対外的な印象(アピール)のなかで大きな成分になっているだけに、触れておいてよいでしょう。

あらためて言いますが、句集のタイトルは、『革命前夜』です。

どうしたことでしょう。どうしてこんなに、こっちまで恥ずかしくなるような恥ずかしいタイトルになってしまったのでしょう。

「革命」といった政治的な語、それも、ただ政治用語というだけでなく、それなりの歴史を背負う語、ドラマチックに昂揚した附属物をコノテーション(随伴的意味)として豊富にもつ語、さらにはある特定の人々に特別のセンチメントを喚起する語、これを俳句に用いるには、なんらかの工夫が必要です。

「革命」といった語を生半可に俳句にすると、無残に無様なことになります。

掲句《革命が死語と~》は、「革命」という語を俳句に使うときに陥る無様さを免れているとは到底言えません(能書きのように凡庸な把握+忌日)。こういう句が一句、句集に入るのは、まあいいとしても、これを句集名にまで持ってくるとは、いかにも残念すぎます。

《革命が死語と~》の句は、修司忌が添えられることで、もちろんのこと一種の比喩であり、寺山修司の絡みで「革命」という語が定位されています。それはそうであっても、比喩には参照元というものがありますから、「革命」という語の威力から自由になれるわけではありません。例えば「おそうじ革命」「ラーメン革命」くらいまで行けば、参照元の影響力は薄れるのでしょうが、掲句の「革命」、あるいは「俳句革命」程度では、引力の圏内です。

そこで思うのですが、この句集が例えば『ラーメン革命前夜』という書名だったら(ここは冗談・軽口ではありません。99パーセント本気)、その巧みな趣向に唸っていたでしょう。

(このあたり、読む人の趣味・嗜好の問題とも言えます。この句集タイトルを何の抵抗感もなく受け入れる人もいるかもしれません。しかし、そこまではめんどうを見きれません)

(為念。革命という語が俳句に使えないなどと言っているのではありません。使い方の問題です)

さて、そこで、『革命前夜』という句集名を目にしたときに抱くのは、浮き足立って昂った、また時代がかって大仰で、陳腐にヒロイックでロマンチックな感じです。

ところが、(これが大きな問題というか重要事項なのですが)、この句集、読んでみると、ちょっと違うのです。そうした「革命前夜」チックなノリとは程遠い、きちんとおもしろい句もたくさんあるのです。

もちろん作者には作者の思いや意図があって、句集名が決まったはずですが、なぜ、こんなにカッコつけちゃったのでしょうか。

俳句とは怖いもので、結果が裏目に出ることが非常に多い。カッコ良がると、どうしようもなくカッコ悪くなる。この『革命前夜』は、「わざとカッコ悪くしてみました。狙いです」とは言えないたぐいのカッコ悪さです。「これが僕です」(あとがき)と言われても、やっぱり、残念としか言いようがありません。



おまけに、帯文です。ここには「現代俳句において真の前衛とは何か、真の革命とは如何なるものか(…以下略…)」(有馬朗人)とあって、大仰・大袈裟を増幅しています。

前衛。革命。この句集に、こうした語、こうした属性を関連させてしまっていいのかどうか。

まず、「前衛」に関してですが、この句集に、「前衛」的な要素は見つかりません。前衛という語を文学史の用語としてであれ漠然とであれ(軍事用語としての使用は別として)使うとすれば、「新しさ」とは無縁ではいられないはずですが、この句集には「新しさ」はありません。実験的な要素も見当たりません。

句の組み立てや表現法は私たちが見慣れたものだし、思いをダイレクトに吐露するという部分は、いささか古めかしい感じさえ漂います。句集に流れる気分も、いわゆる「セイムオールド(古くからおなじみ)」なものです。作者や作中人物からは、なつかしいような人物像が伝わります。

(でも、それのどこが悪い?)

ぜんぜん悪いことではありません。セイムオールドというのは、とてもたいせつなことです。新しい必要なんてない。

(それにしても、ある程度若い人が句集を出すとき、「新しさ」は、ツキモノ、みたいなものなのか。ただの謳い文句、つまり、新しく句集出すから「新しさ」でしょ? くらいの意味ならいいのだが、本気で「新しさ」をもとめていたりアピールしたりだとしたら、二重の意味で問題が残る。ひとつは、「新しさ強迫症」という問題。もうひとつは、俳句における「新しさ」はそんなに簡単なものではないこと。ほとんどの俳句作者は、有名無名、作風を問わず、99.99パーセントの旧態依然のつまらなさを抱えつつ、最後の最後で、すこしだけ俳句を更新する、微細な新しさを獲得するものではないのかい?)

だから、「前衛!」とか「革命!」とか気張ることはないのです。むりやり語を宛てれば、「後衛」の魅力こそが、この句集の魅力です。

(それにしても、ある程度若い人、特に男性の句集のタイトルは、 「気張らないとダメ」というルールでもあるのだろうか?)

そして、帯文の「革命」のくだり。有馬氏は、句集冒頭の跋文「俳句の真の前衛たれ」において、「二十句の連作『修司忌』」に触れ、「私はこの中でも第一句の革命の句が好きで大いに褒めたことがある」と書いています。

どんな句を評価するかはもちろん人それぞれですが、エスタブリッシュメントの「中」だか「側」で業績と地位を築いてこられた有馬氏、東京大学総長、参議院議員、文部大臣、科学技術庁長官などを務め、現在、エネルギー・原子力政策懇談会会長の有馬氏の口から「革命」という語を何度も聞くとなると、やはり、そうとうにざらざらとしたものを感じないわけにはいきません。

結論を言えば、この句集、革命でも、前衛でも、革新的でもない。なつかしく、人肌のぬくもりを持った人間のかなしみ、おかしみがある句集ですよ、ということになりましょうか。



最後に、集中、いちばん好きだった句を挙げておきます。

  竹馬の男そのまま家に入る

はっきりとした奇行ではなく、なんとも言えず微妙な奇行。俳句が描くにぴったりな、俳句的成功によってもっともコクの出る景を捉えています。

この句集には「父」の影も、母ほど濃くではないが、たしかに見えます。この句の「男」は父ではありません。ただ、見知らぬ男とも思えません。

私には、これが「伯父さん」のように思えました。

竹馬に乗ったまま家の中へ?

こんなことをするのはジャック・タチ以来、「伯父さん」と相場が決まっています。

父=日常、伯父さん=祝祭。父=仕事、伯父さん=遊戯。父=秩序、伯父さん=反・秩序。

革命というなら、この男こそが革命です。

革命的な存在として、私たちを魅了するのは、前のほうではなく、後ろのほうにいる、なさけなく、おかしく、かなしい男なのです。


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