2013-07-28

鴇田智哉インタビュー ボヤンの在り処

鴇田智哉インタビュー
ボヤンの在り処

聞き手:西原天気


Q:
週刊俳句に転載いただいた連載「俳句における時間」(12回)を再読しました。あらためてたいへんおもしろかったのですが、「音」に関して、私が最も興味深かったのは、乱父(lamp)による実験のくだりです。実験の第五日目に現れた《とらいちのだぶるねんどのどびんむし》《ゆるしてよ水より暗いぼんやり坊や》の2句は、それまでと違って(あるいはそれまでよりはるかに)「音」的な句です。

そののち、『彼方からの手紙』(vol.4 2012年5月8日)に掲載された乱父(lamp)と鴇田さん(T)の共作8句、一句目の「しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん」を読んだとき、《とらいち~》を思い出しました。

ほかとくらべてすぐれて〔「音」寄り〕になる句、というのを、ご自分で意識されたのですか?

鴇田:
lampがらみの句は必然的に音寄りになります。『彼方からの手紙』掲載の句では、

しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん  T&lamp
とれもんどサモさらうんど木は曇る  同
ふらっとを振ってすわっと戻らなん  同

などが、客観的にも、音寄りということが際立っているかと思います。また、普段(鴇田智哉)の作でも、

枯るるからすうりの絡む風の家  鴇田智哉
梟のこゑのうつむきかけてをり  同
かげろふを川向うから来て坐る  同

などは音寄りと言えそう。

Q:
くだんの実験のなかで、あるいは(実験でなくとも)自作に「音」が突出して現れたりするのですね。

鴇田:
lampでは、基本的に音が突出します。「乱父(lamp)」という人格に明確に思い当たったのは、「俳句における時間」に書いたとおり、例の走る実験を通してです。

「乱父(lamp)」を意識してのち、できるだけ「鴇田(T)」を介入させず「乱父(lamp)」だけで俳句を作る試みをしました。必ずしも走らなくてもできるようになりました。それが、ツイッターに流した「#lamphike」でした。

もちろん、100パーセントlamp作ということはありえません。文字として表記している時点でTが介入している訳ですから。また、表記担当のTの傾向として、音だけのデタラメ語よりも、いちおう日本語の形になっているものを選びがちだという癖もあります。

『彼方からの手紙』掲載のT&lampは、Tとlamp2人の役割分担を意識しようとした試みでした。掲載8句のうち、前半4句は、lamp作の原句をTがアレンジしました。

たとえば、《しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん》は、lampが口ずさんだ「しらぎれるふいきゃらもんをとばらもん」という割と純粋に音だけの句を、T(鴇田智哉)がアレンジしたものです。この句は、二字を漢字に直すだけという、簡単なアレンジで済みました。

『彼方からの手紙』掲載の後半4句は、T作の原句をlampがアレンジしました。

たとえば、《ふらっとを振ってすわっと戻らなん》は、Tが作った原句「古池を蹴って巣箱に戻ろうか」(適当に作った句)を、lampがうとうとしながらアレンジしたものです。

前半4句のうちの1句《とれもんどサモさらうんど木は曇る》は、お察しかもしれませんが、「サモ」という片仮名表記と、「木は曇る」という下五にTが介入しています。

「とれもんどさもさらうんど」までをlampが口ずさみ、下五をTが考えて付けたのち、全体の表記をTが整えたという経過です。

「さらうんど」をわざわざ平仮名に残したのも、〝ここは平仮名の方がlamp色を残せるだろう〟というTの配慮です。(「#lamphike」はいちおう、平仮名表記を基本としています。これはTの判断でそうしています。)

Q:
下五の「木は曇る」はユニークな措辞ですが、それでも従来の鴇田さんの句に出てきて何の不思議も感じないとも言えます。ところで、lampとTの共作は、あの『彼方からの手紙』掲載の8句以外にもあるのでしょうか?

鴇田:
私は例の実験によってlampに思い当たったわけですが、もともと普段から、自分の中にlampとTの二面性はあったわけです。そのあたりの二人の関係については「俳句における時間」最終回における二人の対話がわかりやすいと思います。

そう考えると、鴇田智哉としての《枯るるからすうりの絡む風の家》《梟のこゑのうつむきかけてをり》は、どちらも口ずさむようにできた句ですから、lamp寄りの句と言えそうです。

《かげろふを川向うから来て坐る》はいわば、「かげろふを川向うから来て」まではlampが作り、「坐る」はTが介入して作ったような感じです。

口ずさんでもらうとわかるかと思いますが、「かげろふを川向うから来て」は、リズムとしても、頭韻的なカ行音の置かれ方にしても、鼻唄チックです。

また、「……から来て」という言い回しは、日本語を数十年使っている人間である私としては、頭を働かせず寝ぼけていても、そのままするする出てくるような日本語の言い回しであり、私にとっては、考えずして出てくる日本語の一つです。

ただ、最後の「坐る」は、頭で考えて言葉の着地をさせている。少し意味を持たせている。ここにはTが介入しています。

これらの句に、なぜ「乱父」でなく「鴇田智哉」という作者名が付いているかというと、作品に署名をする段階で、「乱父」でなく「鴇田智哉」という署名をすべきだとTが判断したから、ということになります。

Q:
「俳句における時間」は、音を扱った論考ではなく、時間を視覚に置き換える作業がもっぱらです。音について触れた部分は少ない。これを執筆されていたとき、「音」の問題が大きく浮上することはなかったのでしょうか? あるいは「音」を別個に、「音」をテーマ化する、「音」を軸に「俳句における時間」を考えるというプランはなかったのでしょうか?

鴇田:
音のイメージは、いつも念頭にはありました。

・乱父のフレーズが口をついて引き出されてくるというイメージ。

・鶯の鳴き声のひと続きのフレーズが、ひと目で回想されるというイメージ。

・湖の喩えにおける「藻屑」は、時間を伴った「フレーズ」でもあるというイメージ。

という感じで。

ただ、上に「イメージ」という言葉を多用してしまっていることからもわるように、音を音として語るというのは結構難しく、文章においては視覚的イメージになぞらえがちであったと思います。

「俳句における時間」(12回)においては、「時間=音」という観点を、〝「ほーうお、ほけきょ」そのもの〟や、〝乱父の振舞いそのもの〟に任せっきりにしてしまった感もあります。

視覚的喩えに頼ることなく、音を音として述べるという配慮をした上で、俳句と時間の関わりを論じてみることは、今後の課題のような気がします。

Q:
 「俳句における時間」第5回に、「俳句が「韻律」であるとき、俳句は何も考えてはいない」という重要な記述があります。一方で、第12回(シリーズ最終回)で「ボヤン」という概念が設定されています。

時間は決して「流れ」ません。流れているのではなく、ボヤンと広がっているのです。

「ボヤン」の中には、流れ(時間)らしきものと広がり(空間)らしきものの両方が含まれているのです。でも、いつもは、流れや広がりをくっきりと認識する前に私はいなくなってしまい、くっきりと認識した瞬間にはあなたが現れるのです。そしてあなたが、言葉を言葉として使い始めるのです。
この「あなた」とはすなわち「T」ですね。そこで、なのですが、くだんの実験、「ボヤン」の追求は、イコール「俳句が何も考えていない」「韻律」の根源的な部分の追求かもしれないと思いました。

鴇田:
その捉え方で合っています。lampは音の人、Tは意味の人、という言い方ができると思います。韻律は言葉における音ですので、俳句を韻律としてとらえるのは、lampに近づくことだと言えます。

ただ、究極のlampは言葉を知りませんので、lampそのものは「韻律」のところにいるのではなく、「韻律の根源」「韻律の生まれてくる場」にいるということになります。すると、lampのいる場である「ボヤン」は、「韻律の根源」「韻律の生まれてくる場」だということになります。

ところで、lampの口ずさむ言葉は、ときに、言葉でない鼻唄言語のような場合があります。たとえば、《しらぎれるふいきゃらもんをとばらもん》のように。

このままでは読みづらいのですが、これにTがアレンジを加え、《しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん》とすると、いわば「架空の方言」として、この句を日本語的に読むことができるようになります。lampにからめた「方言」というキーワードは、天気さんからいただいたように記憶しています。

Q:
方言うんぬんはただ単に印象、誰もが受ける印象を考えもなく申し上げたのだと思いますが、「架空の方言」という捉え方、面白いですね。方言は、ナマ(ライブ)のパロール(発話)と言えます。標準語へと調整(標準化)される前の発話。lampが発するものは、調整前のことば(ナマの韻律)と言えるかもしれません。これは私にとって、まさに「lampのいる場である「ボヤン」は、「韻律の根源」「韻律の生まれてくる場」」ということと符合します。lampがボヤンから「音」生み出し、そののち「T」が関わる。

鴇田:
Tのアレンジによって、この句を、日本語の領域に踏みとどまらせたのです。(もちろん、lampの口ずさんだ段階でも、日本語的な要素はあったのですが。)

実は、俳句を「韻律」として考えるとき、言葉(日本語)に踏みとどまらせることは、最低限必要なことです。言葉でなくなると、それはもはや「韻律」ではなく、単なる「音」「リズム」ということになるからです。

lampの口ずさむものが、初めから言葉として全部すらすら出てくればよいのですが、lampは言葉を知りません。俳句にするためには、どうしても、言葉を知っているTの介入が必要になる。

私(lamp&T)が口ずさむものがそのまま言葉として読め、しかも音として無理なく流れているならば、それが理想の状態。この理想の状態は、lampとTが一体となれた状態でしょう。

Q:
お聞きしていて、ちょっと飛躍したくなりました。楽音(son)と騒音(bruit)の対比を思いました。T(鴇田さん)のこれまでの句(仕事)は、美しい楽音です。それに対してlampの発するものは、「ざわざわ」する。ノイジーな魅力と言っていいと思います。

lamp+Tの作業のなかで、好きな音や好きな音楽を意識されていますか? 以前にスピカで挙げていらしたエリック・ドルフィーとか。私にとって、lampはエリック・ドルフィー的です。

鴇田:
その感想はうれしいです。私は、lampが口ずさむ調べの理想として、ドルフィーのアドリブのフレーズのようなものを意識しています。私は、ドルフィーの吹くフレーズには、奏者の意図によって吹いているというよりも、音楽にそそのかされて吹き出しているというようなところを感じます。

彼は、人の日常的な感情とか、何かをしようという意図からくる文脈とは違った、音楽的な文脈によって吹いているように思います。音楽がこう吹けと言っているからこう吹いた、みたいな感じ。

彼の音を聞くといつもイメージするのは、植物の蔓(つる)です。するすると伸びていく。フレーズが悪い意味での人間的、に陥らないところがいい。

彼のフレーズには茶目なところがあると思うのですが、その茶目さは、「音楽」というもの自体が元々持っている性質であると思います。彼は、音楽のそういう性質に逆らわない。

言葉のフレーズも、そのように出てくると面白いな、と思うわけです。特に俳句は、それに向いているように思います。というのは、俳句という形式が呼び込む文脈には、感情や意図をこえた茶目なところがあると思うからです。

Q:
「茶目」「お茶目」。またキーワードが出ましたね。音楽でいえば、以前、どこかで立ち話をしたとき、「もごもごした音」が好きとおっしゃっていました。あれは、ノイズということとは少し違いますが、ノイジーな感触を残した音楽というふうにも、いま思いました。

鴇田:
「もごもごした音」は音質的な好みかもしれません。スライ&ザ・ファミリー・ストーンが好きで。初期のソフトマシーンも、もごもごしてますね。ジミヘンも好きです。

そういう意味では、ドルフィーは「もごもごした音」には入らないようです。いや、バスクラの時は入るような気も。やはり「もごもご」は音質的なものかも。

(lamp活動に限らず、)俳句にインスピレーションを与えてくれる音楽としては、ポール・ブレイ(ピアノ)が好きで、60~70年代のソロやセッションをよく聴いています(≫YouTube)。硬質だが崩れそうな感じがあります。ビル・フリゼール(ギター)も好きです(≫YouTube)。繊細でモヤっとしたソロが魅力です。

Q:
最後に、「ボヤン」を考えるとき、阿部完市以外で参考になる作家はいますか?

鴇田:
作品自体が「ボヤン」へいざなう、という意味では、

降る雪が川の中にもふり昏れぬ   高屋窓秋
ちるさくら海あをければ海へちる  同
山鳩よみればまはりに雪がふる   同

などを思います。

これらの句には呪文のようなところがあって、一句をくり返し口ずさんでいると、ボヤン的な瞑想に誘われていきます。

また、作品にとても「音感」を感じる作家としては、渡邊白泉・池田澄子がいます。阿部完市は文章も参考になりますが、作品にも独特の音感がありますね。

Q:
ありがとうございました。たいへんおもしろいお話を聞かせていただきました。lamp氏にもよろしくお伝えください。

鴇田:
楽しかったです。ありがとうございました。よろしく伝えます。

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