【俳句総合誌を読む】
『俳句』2013年8月号
「希望の星たち 新世代作品特集」を読む 〔前篇〕
うえだ:上田信治 × 篠:村田篠
うえだ: 『俳句』8月号は、通巻800号の記念特大号ということで、盛りだくさんな内容ですが、とりわけ14人の「若手」作家の代表句3句と新作7句からなる「希望の星たち 新世代作品特集」という特集が、目立ちます。
なにはともあれ、読んでみようということで、週俳編集部から、村田篠さんと上田信治で、新作中心に、14人の方の作品を読んでいきます。
篠さん、よろしくお願いします。
篠: はい。 よろしくお願いいたします。小川楓子さんからですよね。まず、新作からいいと思った句を挙げていきますか?
うえだ: はい、そうしましょう。
●「来て」 小川楓子 (海程・舞)
うえだ: ぼくから、あげます。
たふれたる樹は水のなか夏至近し
水道を埋めこむ溝やしやがの花
涼しさの鉄蓋に彫るかたつむり
滝しぶきねぢれたるまま葉のそだつ
篠: では私も。
たふれたる樹は水のなか夏至近し
去りがてにもつともつよき草螢
水道を埋めこむ溝やしやがの花
涼しさの鉄蓋に彫るかたつむり
うえだ: あ、ほとんどかさなりましたね。
篠: かさなりましたね。
楓子さんの句には凛とした調べがありながら、すーっと引っ張る余韻のようなものもあります。
「たふれたる」「去りがてに」は、まさにそういう句で、好きです。文字だけではなく、音で聞いても明瞭ですし。
うえだ: あ、そこはちょっと、意見分かれましたw この人の言葉って、意図的にゆらぐ部分をつくっていて、むしろ不明瞭なんじゃないか。
言い方をすーっといかせないで、にじませたり、遠回りさせたりするところに、詩的なもの思弁的なものを見いだそう、という書き手だと思います。
一句ずつ検討しましょうか。
たふれたる樹は水のなか夏至近し
樹に重さがない感じ、ふわっと「たふれて」いる。この「たる」が、すこしだけへんな感じがするんですよね。ぼくだけかな? 存続の「たり」で、あってるはずなんだけど、へんな無重力感。
で、「夏至近し」でしょう。夏至が近いって、実感、そんなになくないですか?
篠: この句は作者の見た景という感じがするのですが、「樹は水のなか」のあやふやさでもって、時間の感覚が薄れているというか。
うえだ: なるほど。「たふれたる」と「水のなか」重ねると、しずーかに倒れていって、そのまま水の中にあるような感じがするのかもしれない。
篠:「夏至近し」は現在で、樹を見たのは過去のどこかでもいいように思います。どこかで見た水の中の樹のことを思っている夏至近き頃(笑)。
「樹は水のなか」という景は私にはくっきりと感じられるのですが、ただそれが、眼前のものという感じがあまりしない。「あやふやさ」と言ったのはそういうことですね。で、もしかしたら、その犯人が「たふれたる」なのか、「夏至近し」なのか。
たしかに、夏至が近い、という実感はあんまりないですけど、6月末ぐらいになると、なかなか日が暮れない、夏だよもう、と思うことはあります。
でもそれは、いわゆる「夏が来た!」という実感というのとは少し違いますよね。強い実感ではなくて、もう少しうすうすとした感覚。
うえだ: ああ、なるほど! 「夏至近し」、永遠の昼っていうかんじですね。だとすると、時間感覚うすれるって、ほんと、その通りですね
篠:
涼しさの鉄蓋に彫るかたつむり
水道を埋めこむ溝やしやがの花
これらの句も、ほんとうに不思議です。「彫る」も変だし、「かたつむり」もほのかに変。鉄蓋の柄なのかもしれませんが、それにしても。
「水道を埋めこむ溝」には、かたいものを柔らかいもののなかに埋めこむような感覚があって、独特だなあ、と。
うえだ: そうそう。「鉄蓋に彫る」、自分が彫るわけじゃないですからね。
「水道を埋めこむ溝や」の「水道」も、ほんとは埋めるのは「水道管」。でも、水道というシステム自体、都市の肉体の一部のようなものを、目の前の溝に埋めるような言い方になっているのが、おもしろい。
篠: 「樹は水のなか」も、かたいものがやわらかいもののなかに入っているし、代表句の「芯」とか「糸貫けり」とかも、やわらかいもののなかに配されている。
そういう構成が、私には、凛とした、と思えるのかもしれません。
うえだ: なるほど。そういうモチーフあるかも。
対象が日常に近い景にほぼ限定されるという意味では、例の「石田郷子ライン」にも近く、でも、オリジナルな書き方で、不思議な世界を作ろうとされている。
ただ、この人の言葉づかいは、ときに舌っ足らずにも見えるし、あいまいさを生みがちという気もする。篠さんの言われる余韻は、たぶん、措辞の揺れから来ている。
かっちり書き込むというより、ふんわりとつかまえるやり方で、そこから生まれるものが、ムードにとどまっちゃうと残念なんで、きわどいやりかたと思うんですけど。
でも、そのぶん「攻めてる」ことを評価すべき書き手だと思います。特に今回の14人の中では。
篠: はい。とても刺激を受けました。
●「三連画」 関悦史 (豈)
うえだ:
受肉の時機(とき)春の泥めく影漏らす
「フランシス・ベーコン展 四句」という前書のあるうちの一句。
たしかに、人物の足もとに、べちゃあっとキレイなような禍々しいようなものが、漏れてる絵がありました。この世に肉体を得るその刹那に、べちゃあっとなにかが排泄されるということに、ベーコンの絵を離れて、わけもわからず説得されました。
篠: 私はベーコン展に行ってないのですが、関さんの4句を読んで、なんとなく、ベーコンの絵を見たような気になりました。
受肉の諸力揉み合ひてあはれ個の貌は
なんかは、肉のせめぎ合いに貌が壊れてゆくような感じがよく出ている。一幅の絵のように、俳句をつくっておられますよね。
うえだ: ベーコンの恋人(男性)の肖像というのが、非常にそんなかんじでした。
社会的テーマの句も3句。〈スクール水着踏み戦争が上がり込む〉は佐藤文香さんの「紺の水着」、〈一日五人餓死遂ぐる国立葵〉は、小澤實さんの「貧乏に」の句、〈水遊びする子撮りたる親は消ゆ〉は、爽波と裕明の「水遊び」の有名作を、もじっている。
篠: ああ、なるほど。もじり。「スクール水着」の句は、そのすぐあとに文香さんの「紺の水着」の句があったので、ほんとに対照的だな、と思いました。
うえだ: 社会が悪くなっている、というシリアスなテーマを言葉遊びに託すというのは、そうやって遊んでいられるのも、今のうちかもしれないよ、ということかもしれない。
後半の3句、過去作ほどの切実感ないようにも思いましたけど、ほんとうに関さんの悲鳴が上がるようになったら、と思うと、今の世の中がこわい。
篠: 〈スクール水着踏み戦争が上がり込む〉の句は「上がり込む」が強烈に残りました。誰も望んでいないのに勝手に上がってきてしまう。そういわれると、戦争ってたしかにそういうものなのかもしれない、と。
うえだ: ベーコンも怖いですし、関さんは、恐怖をばねに書くことが多いのかもしれません。
前衛から新興俳句までさかのぼっての、社会性、観念性、を引き受けきって、サブカルとともにあることで、同時代にがっつりと錨を下ろしている。
独自の方法で、俳句を、アクチュアルな表現として現在につなぎとめている、貴重な作家の一人だと思います。
篠: 信治さんの言葉で関さんの俳句にすごく近づけたような気がします。
うえだ: >信治さんの言葉で いえいえ。
関さんのは、言葉の「圧」がすごいし、内容がすごく、よく分かるんですよね。
詩誌「ガニメデ」の50句も飄々としてて面白かったですよ。〈揉みはじめ揉み止められぬ檸檬かな〉とか。〈何が化けたる九段会館秋暑し〉とかw
篠: ユーモアたっぷりの句も多いんですよね。一見むずかしく思える句にも、関さんの人柄が出ているような気がして、惹かれるし、関さんの読ませる力に触れて、一生懸命どんどん読んでしまいます。
●「ふれて」 佐藤文香 (鏡・里)
うえだ:
純喫茶「丘」のまはりの春の光
手の指は裸足ふたつを洗ふなり
そこにあるすすきのなかの空気かな
篠:
ふれて紙の表か裏か天の川
手の指は裸足ふたつを洗ふなり
信治さんの挙げておられる〈そこにあるすすきのなかの空気かな〉は、スカスカな感じがして、私にはどう読んだらいいのかよくわからなかった。信治さんの評が聞きたいです。
うえだ: よくぞお聞き下さいましたw
すすきのなかに空気があるというのは、実体であると同時に観念なんですよね。あることは分かっていても、そのこと自体は、実感はできないですから。
それで、この「そこにある」を空辞と読むか、必然性をうけとれるかが鍵だと思うんですけど。
「そこにある」と切り出すことで、発話主体は、それをほかならぬ自分の前にあるものだと言う。そこにある「すすき」のなかの、そこにある「空気」をかろうじて捉えようとするんです。
そのとき実際に見えているのはきっと運動する光なんで、つまり、そこに空気があるという観念が、すすきの穂の動く光という実体として見いだされる、という。観念と実体が往還するような句ですね。
篠: 実感はできないけれど、そこにあるとわかっているもの、つまり「すすきのなかの空気」を、「そこにある」と言ってしまうことで捕まえようとする、ということですか。なるほど。
「そこにある」をただの空辞と読んでしまうと俳句にならないので、そうではないのだろうということだけは分かったのですが。これを例えば〈そこにあるすすきのなかの光かな〉などとやってしまうと、「そこにある」がむしろ空辞っぽくなってしまうけれど、「空気」という目に見えないもの(=観念) にすることで成立する、ということですね。
うえだ: はい。確かなものにたどりつこうとする祈り、、、というと大げさですが、そんなものを感じました。
この人は、けっこう賛否両論にさらされますが、つねに、なにか新しい書き方を模索している書き手だと。
だいたいいつも、まず措辞のレベルで言葉の構成がおもしろいんですが、モチーフもいろいろ考えられている。
篠: 手の指は裸足ふたつを洗ふなり
「手の指」「裸足ふたつ」という無人称な言い方が、とても魅力的に働いていますね。裸足ふたつ、なんて言い方はあまりしないから、もうそれだけで新鮮です。
うえだ: 指といい、裸足といい、だれのという人称をはずして肉として書くことで、だれがだれを(自分で自分をかもしれませんが)洗うのか分からず、ただ、肉と肉がふれあうように書いていて、エロチックです。
純喫茶「丘」のまはりの春の光
他愛ない仕掛けなんですけど、「「丘」のまはり」と書かれれば、どうしてもじっさいの草萌える丘を、いったんイメージしつつ、その光線を、純喫茶周辺に、与えることになる。
篠: ふれて紙の表か裏か天の川
「ふれて紙の」という導入にまず引きつけられる。で、ふれても断定せず「表か裏か」と投げかけることで、読み手も紙の表と裏の感触を思い浮かべますよね。でも、そこでいきなり「天の川」へ飛んでしまって、読み手が置き去りにされる。
この、もっていかれる感じが、とても気持ちいいというか。
うえだ: >読み手が置き去りにされる。>もっていかれる感じ
なるほど。 着地する先が、実体的でないかんじ。たぶん単純なうれしい、きもちがいい、よりも、もっと抽象化された感情を描き出すことが、目指されている。
一方で、しれっと〈月甘く自然に君の家に入る〉みたいな、恋の句があったりもするんですが。これだって、ぜんぜん自然には書かれていない。
篠: ええ。この句もいい意味で変ですよね。ここに書いてあることは、恋をしているときの気持ちを思い出してみても、なかなか単純には想像できない。
うえだ: この人は、だいたいいつも、楽には書けない書き方で書いてる。
近年、俳句は、すんなりと言葉に無理をかけない書き方が尊ばれてきて、それはもちろん悪いことではないんですが、語法が、すこしマンネリ化しているように思うんです。
だから、楽に書けない書き方で書くってことは、だいじかな、という気が最近しています。
篠: はい。そんな気が私もします。自戒も込めて。
うえだ: もちろん、ほんとは、みなさん、けっこう苦労されてて、楽に書いてるとか言ったら、しかられるでしょうけど。
ただ、苦労してないように見せる、ということを大事にしすぎてしまうと出てこないような、新しいものもあるかもしれない。達成の幅をせばめてしまう気がするんですよ。
●「長崎旅情」 中内亮玄 (狼・海程)
篠: テーマがはっきりしているので、句に詠もうとされていることが分かりやすく、読みやすかったです。
前衛(同ページ、小文より)なのかなあ? 私は強い叙情性を感じました。
熱のこもる足音の群れ蟹かもしれぬ
聖人の足音なのかな、と思ったら、「蟹かもしれぬ」。
蟹であることにむしろ「聖」を感じました。
うえだ: ぼくもその句でした。
〈殉教の坂足裏(あうら)より夕焼ける〉〈額(ぬか)に天道戦争をゆるせ人をゆるせ〉という句もあって、長崎のキリシタン殉教と、原爆をモチーフとして通底する7句かと。
その文脈においてみると、掲句の「足音の群れ」は、死者たちのものなのかもしれない。それを「蟹」かもしれないというのは、その足音を聞いている自分が、幽明界の境にいるようで、おもしろい。連作、はなれても、ぎりぎり分かるでしょう。
たぶん、この書き手の資質なんでしょうけど、強いナルシズム、あるいはヒロイズムが感じられて、ですね、、、すこし、ステキすぎるかな、と。
篠: 〈はつ夏の長崎風の着地点〉〈殉教の坂足裏(あうら)より夕焼ける〉の句の「風の着地点」とか「足裏より夕焼ける」というような措辞は、私も、ちょっとかっこよすぎる、かな、と思います。
●「そよぐ」 村上鞆彦 (南風)
うえだ: 村上さん、このカテゴリーでいいのかなあ。
椎の花休日のまづ髪刈りに
雀みな梢を下りて梅雨夕焼
どくだみの花もそよぐといふことを
葭切や葭まつさをに道隠す
日盛りの海は潮を流しけり
篠: 村上さんの句は、総体的に好きです。
椎の花休日のまづ髪刈りに
雀みな梢を下りて梅雨夕焼
日盛りの海は潮を流しけり
うえだ: 過去の俳句のいい部分を保守する作家として、ばつぐんの存在感だと思います。
今回の14人の中、ほかにもそういう目的意識でやってる人は何人かいらっしゃると思うんですけど、そこに、その人の「一分」をつけ加えるということがなければ、作者とはいえないわけで。
どのへんが、この人の「一分」なのかを感じつつ、読みたいと思います。
椎の花休日のまづ髪刈りに
この湿度と、頭がさっぱりすることへの期待w 1句目から肩の力を抜いてはじめますよ、という切り出し。
篠: 「髪切りに」じゃなくて「髪刈りに」であるところに、なにか、この方の生活感が出ているように思えるんです。派手じゃないけれどきちんと生きているというか。
雀みな梢を下りて梅雨夕焼
「雀が梢を下りていること」に気がつく、ということが何とも言えずいいですし、梅雨の夕焼けなんていうあまりすっきりしない微妙なものを配するのも、独特。
うえだ: これ、ヘンな句で、今回の7句で一番好きかも。上のほうは、どろどろと梅雨時の夕焼けで、雀は、もう暗くなりかけてるのに、木の下に下りてきている。上はどろどろ、下は暗くてかわいい、という、そんなひとときがあった、ということなんですけど、かすかになさびしみと不安がある。
それは『新撰21』でのこの人の100句の特徴でもあって、知的な構成と、メランコリーが、もともとの持ち味なんだと思います。
篠: たしかに、さみしさがありますが、自分の感情として投影するのではなくて、単にある〈さみしさ〉としてそこに置く、というような感じがします。
うえだ: さみしさを、置く、っていいですね。
葭切や葭まつさをに道隠す
けっきょく葭しか見えないという絵的な構成のおもしろさと、草いきれに圧倒されてるんだけど、葭切の可愛さをたよりに、その場に立っていられるという前向きな感じ。
篠: 日盛りの海は潮を流しけり
「海」が動いている。「海」のなかに「潮」がある、という当たり前のことを、「流しけり」で詠み分ける。質感とか動きが見えてきます。
うえだ: ただ、心理的なものばかりではなく、自然のエネルギーのようなものを書く、という志向が感じられます。虚子の〈大海のうしほはあれど旱かな〉を連想しますが、「流しけり」は、けっこう大胆。見えないものを見ようとする「観念の句」ですね。
村上さんは以前「俳句は古いもの」という文章で「私はただ、先人達が大切にしてきたものをそのまま受け継いで、伝統的な有季定型を墨守していきたいと思っているだけである」書かれたことがあって、がちがちの保守派に見なされている、多分。
でも、作品には一分の新しさを、ぼくは感じます。
その新しさは、飯田龍太や森澄雄にあった新しさに似たものかもしれないですけど(いやあ、新しいって、なんなんでしょうね)。
村上さんが、ご自分の新しさの部分に自覚的なのかどうか、訊いてみたいという気もします。
篠: この方の句は、風景に自分をべったり投影するのではなくて、少し離れている感じがいいですね。決して「観念的」というわけではないのだけれど、地面から5センチぐらい宙に浮いているような感じ。
うえだ: 浮いてる感じ、ちょっとキーワードですね。今井杏太郎や鴇田さんの浮遊感はよくいわれます。新しい人の中にそういうものは多く見出せそう。
実体的ではない抽象的な感情を着地点に、みたいなこと、さっきも書きました。
●「快晴」 西山ゆりこ (駒草)
篠: 西山さん、健全ですし、能動的です。
電流となれり一口めのビール
の「電流となれり」など、技巧ではないストレートな詠みぶりがいいと思いました。
夏の雲ファラオの壁画みな働き
ファラオの壁画から「働く」というモチーフをもってくるところも健康的ですし。
うえだ: はい。内容・健全、形・安定。夏の句が印象的な書き手です。でも、そのせいかもしれませんけど、俳句甲子園みたいだなという印象も受けるんですよ。〈夏の蝶少年少女を抜けて来し〉〈毎日が快晴目高覗き込む〉とか。
〈背泳ぎの空の窪んで来たるかな〉は、石田響子さんの〈背泳ぎの空のだんだんおそろしく〉があるし。
「ゴールデンウィーク」の50句にあったような、健康すぎてすごい、みたいな句が見たいと思うのは、無い物ねだりじゃないと思うんですけどね。
篠: 毎日が快晴目高覗き込む
この句も大変明るくて能動的です。「毎日が快晴」なんて、なかなか言えない。
うえだ: そうか。たしかに「毎日が快晴」は、なかなか出ないかも、ですね。
でもそこに「目高覗き込む」と来ると、いい夏休み、という絵の中に収まってしまう気がするんです。予想の範囲というか。
篠: なるほど。そう言われると、「電流」→「ビール」も予想を超えてはいないかもしれませんね。
「ゴールデンウイーク」では、身体の詠まれ方が際だっていました。今回の7句には、そういう句があまりないのかもしれない。
「背泳ぎ」の句は、石田郷子さんの句をどうしても思い出してしまうから損をするかもしれませんが、空が「窪んで来たる」というというのは、面白い表現ですよね。郷子さんの句も、好きですが。
うえだ: 「窪んで来たる」おもしろいんですけど、やっぱり感覚の着地点も、石田さんの句と近いので、うーん、返句という風にもなっていない気がして。
でも、この人の健全で強い感じが、俳句に持ち込まれることは、今後ともずっと楽しみです。繊細、端正ばかりでは、おもしろくないので。
篠: 同感です。
●「水澄む」 杉田菜穂 (運河・晨)
うえだ: うーん。〈はるか沖に日の差してゐる花カンナ〉〈宮相撲少女が少年を負かす〉って、あたまで作れる景だと思うんですよ。
篠: 〈はるか沖に日の差してゐる花カンナ〉は「花カンナ」と「日の差してゐる沖」の取り合わせですね。取り合わせとしてはいいのかな、という気はしますが、身体にずっしりとくるものが希薄な感じもします。
うえだ: 沖は日が差すものだし、これなら、カンナ見なくても、画像検索でじゅうぶん書けてしまうかんじがして……。
あと〈懐かしき心地のすれば秋の風〉〈木登りをして秋望を独り占め〉〈色鳥の鳴き声のなほ美しき〉……。季語を、こう軽く展開して作ったみたいな。いいのかなあ、これで。後藤比奈夫さんみたいですよね。
篠: かどうか、私にははっきりと言えませんけれど(笑)、見たことがある形であり展開、という気はしてしまいますね。
うえだ: 後藤さん、同じ号に〈見る夢もなくて久しや籠枕〉って、書いてます。あまり、賛成できる句がなかった。すいません。
篠: 〈然るべき位置に落ち着く桐一葉〉の句などはあまりにもかんたんに言葉を置きすぎているかなあ、と。
7句はどれも安定していて、それだけに「変」なところがあまりない。ひっかかりなくするすると読んでしまいます。
創作物は、なにか「ちょっと変だぞ」と思うようなところが欲しい。というか、ひっかかってほしい。
うえだ: はい、たしかに。わざと変に、というのでないですよね、もちろん
ひっかからないというのは、常識的だということで、常識的は俳句でいちばん困ったことだと思うんですよ。だって、日々、ごまんと生まれて消えるものなんだから、どんなささいなものでも、なにかをつけ加えるのでないと、書かれた意味がない。
篠: そうです、そういうことです。
(後半につづく)
●
2013-08-04
【俳句総合誌を読む】『俳句』2013年8月号「希望の星たち 新世代作品特集」を読む〔前篇〕 村田篠 上田信治
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