「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」レポート
感覚をあやつる
今泉礼奈
第132回現代俳句協会青年部勉強会「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」
2013年8月3日(土)13時30分/於・池袋勤労福祉会館
パネリストは視覚側に九堂夜想さんと小山森生さん、聴覚側に四ッ谷龍さんと関悦史さん、司会は田島健一さん。
まず、司会の田島さんも含め、皆さんが感じていた前提として、視覚や聴覚といった感覚は完全に切り離して考えることができない。そもそも、ヴァーサスにできるものではないということです。
「写生」の句(この勉強会では「写生」は禁止用語であり、どうしても使わざるを得ないときは写ピーということになっていましたが…)は、視覚的な俳句、つまり視覚からつくられる俳句であるといえると思います。ただ、読者に映像としてイメージさせるだけの俳句は少なくとも秀句ではない。また、聴覚に限らず、視覚以外の感覚も刺激されるべきであり、そうでなければ、よりリアルな映像は立ち上がらない、と思うのです。それは聴覚からつくられる俳句でも然り。
水仙の跫音水仙は聴けり 宗田安正
実際には聞こえない「水仙の跫音」を私たちは聴覚を頼りにたどろうとする。しかし、それは水仙のイメージがあってこそのもの。この句は、関さんから、「音がたつことによってひとつのイメージが立ち上がる」俳句の一例として取り上げられていました。
しかし、わたしは、四ッ谷さんの「クロスモーダルな句」についてのお話を聞いて、俳句という形式を利用すれば、その感覚を切り離すことも、無理矢理にくっつけることもできるかもしれない、とも感じたのです。クロスモーダルとは、感覚をまたがること、らしいです。
蛋白石(オパール)の中なる水もぬるむなり 関悦史
オパールの中にある水に実際に触れることはできない。しかし、実際に触れているかのように「水もぬるむ」がはたらき、確かな皮膚感覚を読者に与える。視覚を触覚であらわした俳句、つまりクロスモーダルな句といえるでしょう。
敷石をしろがねとしぬ落葉掻 斉木直哉
天網は冬の菫の匂かな 飯島晴子
これらもクロスモーダルな句といえるとのこと。わたしは「感覚を無理矢理にくっつけている」といってしまいましたが、その乱暴さに魅力を感じたのです。
四ッ谷さんは強く主張されていませんでしたが、クロスモーダルな句に対立するものとして紹介された「同一モーダルな句」も、わたしにはかなり新しく感じました。
たんぽぽの黄が目に残り障子に黄 高浜虚子
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 同
目が痛くなってしまうほどの映像、というより残像。視覚以外の感覚をはたらかせることを忘れてしまいます。
感覚ってこんなにも自由自在に操れるものだっけ、と、これらの俳句を並べられてみて思いました。作者も読者も無意識的に感覚をはたらかせて、俳句をつくり、読んでいるのだけれど、エクリチュールとしての俳句は、ひとりでに、その感覚を自由に操作しているようにもみえます。
自分の俳句が、自分とははなれたところに行ってしまうのも、それはそれでよいのかもしれない、とわたしは思っているのです。
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2013-08-18
「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」レポート 感覚をあやつる 今泉礼奈
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佐々木貴子さんによるレポートは、以下のリンクから。
≫http://genhai-seinenbu.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
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