2013-08-11

【週俳7月の俳句を読む】どうしたでせうね、僕のあの帽子 佐藤りえ

【週俳7月の俳句を読む】
どうしたでせうね、僕のあの帽子

佐藤りえ



諸々により忙殺、塩漬けじみた日々を送るなか、合間を縫って清里高原に行ってみた。清里駅周辺の寂れっぷりに驚く。鉄道駅に最も近い民芸風の飲食店からして空き店舗なのだ。目抜き通りだったと思しき駅前の道も閑散として、営業している店も、買い物客もほとんど見かけなかった。夏休み前の平日とはいえ、予想を超える静けさだった。涼を求めてやってはきたがこれではいささか気分が涼しくなりすぎる。

遠い記憶の中で清里高原といえば木で出来たとんがり屋根の貯金箱にクッキー文字で「KIYOSATO」とか入っていた気がする。二等身のカップルが描かれたペナント、木工製品のキーホルダー、とかとか。

そういうもろもろのものたちはいつの間に、どこへ吸い込まれて消えてしまったのか? それとも長い時間をかけて、だんだんうすれて、見えなくなっていってしまったのだろうか。

ジャージー・ハットのミルクソフトを嘗め、夏富士を遠く眺めながら、なんともいえない気持ちがこみあげてくる。

ああそういえばこんなこと、いつかもあったっけなあ。いつだったっけなぁ、などという具合に。



どんみりと枇杷の実のありうす情け  鳥居真里子

「どんみり」という擬態語を初めて目にした。「どんより」でも「しんみり」でもないし、「鈍重」でも「みりみり」でもない。内側にくるしく(あるいは豊かに)おおきく種子を抱えた果実をどんみりと言われ、ぽってりとした形の、どちらかといえば屈託のありそうな趣にその言葉はふさわしいなと思った。薄情なほどに枇杷をかばい立てする気持ちが湧いてこない。

晴れた日はこわい顔して遠泳へ
  ペペ女

泳ぎの達者なひとはそうでもないかもしれないが、泳いでいる時の人の顔は怖かったり必至だったりすると思う。遠泳、なんという過酷な運動か。掲句の「こわい顔」が必ずしも泳いでいるひとのこと、あるいはこれから泳ぐからそうなるということを指し示しているのではない、とは思っているが、こわい顔→遠泳の流れや勢いは子供の直感っぽく正しいと思った。

我の目に映る鬼灯市を去る  岸本尚毅

一連、鬼灯市をひやかし歩く感じがひたひたと漂う中に、そこだけ異次元めいた一句に目が留まった。景色の中に、我の目に映る鬼灯市を「去ってゆく我」が見える。我の目を「見ている我」と、鬼灯市を映した「目を持つ我」と、三者の「我」がエッシャーのだまし絵的に浮かびあがってくる。

よしんば見ている「我」を召喚しないにしても、目の「我」と去る「我」の登場は捨てがたい。めくるめく「あたま山」の世界だ。

鶯谷のタオル黄色し桜桃忌  藤 幹子

紫陽花は家禽と思ふ撫でやすい  同

鶯谷にひるがえるタオルと言われると、それはああいうタオルだろうなという決めつけがある。美容院や床屋のものかもしれないのに、いややっぱりアレでしょう、と。劇中効果音の「ヒャー!」が寅さんシリーズ冒頭の音とどうしてもかぶって聞こえる「幸せの黄色いハンカチ」、あの映画もそういえばけっこうアレな映画である。桜桃忌にひるがえる黄色いタオルは、幸せを待っているのだろうか。



紫陽花祭りに近年出掛けてみると、紫陽花がどれだけもりもり咲いていても怖くならない。これが千畳敷の彼岸花だとほとんど彼岸だし、丘一面のコスモスや菜の花だと、なんだか「あはあは」(旧かな)してしまうのに。「家禽」に同意してしまうのはそういう下敷きがあるからで、なおかつそれを「撫でやすい」といううす情けぶり。灌木をてなづけるのは猛禽を従えるのとそんなに違うだろうか。違わないだろうし、紫陽花はそうやすやすと従ってはくれないだろう。陰性な緊張感をたたえる一句に「禽」の文字はふさわしい。


第324号 2013年7月7日
マイマイ ハッピーアイスクリーム 10句 ≫読む

第325号 2013年7月14日
小野富美子 亜流 10句 ≫読む
岸本尚毅 ちよび髭 10句 ≫読む

第326号 2013年7月21日
藤 幹子 やまをり線 10句 ≫読む
ぺぺ女 遠 泳 11句 ≫読む

第327号2013年7月28日
鳥居真里子 玉虫色 10句 ≫読む
ことり わが舟 10句 ≫読む

1 comments:

ハードエッジ さんのコメント...

どむみりと樗や雨の花曇り  芭蕉