2013-09-01

【週俳8月の俳句を読む】この街のどこかで 岡村知昭

【週俳8月の俳句を読む】
この街のどこかで

岡村知昭


多摩川市西区土筆に皺がまた  井口吾郎

多摩川市にも春が来て、土手には土筆が姿を見せる。土手を行き交う西区の人たちの、土筆を見つめるまなざしがとても優しそうであるのは、ようやくの春の訪れへの喜びもさることながら、街の中にあって数少ない緑の空間で、懸命に生えている土筆への驚きも含まれているだろう。だから行き交う人たちからしたら、生えてきた土筆の大きさだの色艶だの形だの、そのようなものはまったく気になどしていないのである、「皺がまた」などと嘆いてみせるこの人を除いては。「土筆とはかくあらねばならない」との思い込みにすっかりとらわれてしまっているこの人にとっては、大きさに色艶に形、どれも高い理想を求めているだけに「土筆に皺」などもってのほか。土手を歩きながら土筆を見つけては、「ああここの土筆も皺がある」「あそこの土筆も皺がある」と小さくつぶやきながら、自ら求める「理想の土筆」をなおも追い求めるのである。この街でこれからも生活していかなくてはならないこの人にとって、「理想の土筆」を探すことは自らの内に潜む野性を探す作業なのかもしれない、などと言ってしまうのは大仰すぎるか。奮闘空しくこの人にとっての「理想の土筆」はなおも見つからず、そろそろ日の暮れてくる頃である。


燦々と市民プールの市民たち  村上鞆彦

連日の厳しい暑さもなんのその、今日も市民プールは大盛況である。元気よく水しぶきを上げる老若男女。子供も大人もプールの至るところで歓声を上げ、プールにいる喜びを体いっぱいを使って表す。夏の真昼の暑く眩しい光を浴びて、燦々と輝きを放つ水しぶき。ここにあるのはまぎれもなく、夏の一日を平穏無事に生きている市民たちの姿である。しかし光あるところに影は付きもの、燦々とした輝きが眩しければ眩しいだけ、いまこの瞬間を楽しんでいる市民たちひとりひとりが、いまこの時に抱え込んでいる暗闇に、そしてこれからも「市民」であり続けることの危うさに、果たして気が付いているか、などと思いめぐらせる誘惑に駆られてしまうのは、決して連日の厳しい暑さのせいばかりではない。「市民」と言う存在であり続けるのは思った以上に難しいもので、ささいなきっかけから平穏な日常生活がもろくも崩れ去ってしまう、というのは「市民たち」の周りにおいても、いろんな形をとって起こっているはずなのである、ただ自らの視野には入らなかったというだけで。「なにを野暮なこと考えているんですか」との声が水しぶきの向こう側から聞こえてくる。燦々と眩しい市民たちの声。燦々と輝く市民たちの肌が水をはじきながら、市民プールを駆けめぐっている。


夕ぐれを飛ぶ木耳の笑いけり  久保純夫

夕ぐれはあまた翔び立ちなめくじら  同

ヒトは鳥のように己の力だけでは空を飛ぶことはできないが、どうやら木耳をはじめとする「あまた」のものは鳥のように空を飛ぶことができるようなのである。現に木耳は夕ぐれの空に満面の笑みを浮かべているし、「あまた」のものが飛び立っていく様を見届けたなめくじは、次は自分の番だと意気込んでいる様子。違いますよ、なめくじは夕ぐれの空を飛んでいる「あまた」のものに対して、こいつらはいったいなにをやってるんだと冷ややかに見つめているんですよ、とのご意見は参考として受け取っておくものの、そうであってもなめくじの視線の先に、夕ぐれの空が広がっているのには変わりがない。さてヒトのまなざしの向こうにも夕ぐれの空は広がっているはずなのだが、そこに至るまでには液晶画面だの、書類一式だの、ビル群だの、巨大な電波塔だの、とにかく障害物の数々が目白押しなので、それらをかき分けてようやく夕ぐれの空にたどり着くころには、目も体も心も、すっかり疲れきってしまって、空を飛ぶどころでは到底なくなってしまっているのである。もちろん木耳をはじめとする「あまた」のものたちが空を悠々と駆け回る姿など眼に入ってはこないだろう。もし「あまた」のものたちの空飛ぶ姿を夕ぐれの空で見かけたときには、そっと笑って、手を振ってあげたいとは思ってはいるのだが、そんな余裕はいまのところ、街を這うのが精いっぱいのヒトたちにはなさそうだ。

第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

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