2013-09-15

朝の爽波84 小川春休



小川春休




84



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の秋の句。九月前後ではなかろうかと思われます。九月十四日には、初めての「青」句集まつり(その年に刊行された句集の合同出版祝賀会のようなものと思われ)が開催。その翌日、嵯峨での高槻吟行会には句集まつりの来賓でもあった辻桃子・大屋達治も参加した模様。なお、「青」二月号から連載開始の「枚方から」、九月号はこんな感じでした。
(前略)即ち「何々を写生しにゆく」という確固たる目的をもって、その「何々」に徹底的に食らい付いて、一切の傍目もふらずに対象を見て見て見抜いて、気力をふり絞って現場での写生を遂行すること。ここ何年か、これ一点に絞って徹底的にみんなにこれを実行して貰う以外には、写生の実践が即写生力の向上に繋がる道はないのだと改めて考えている。
 漫然と野に出て写生を、などと言ってみたところで、手も足も出ないというのが本音である筈だ。
 さてその「何々」だが、兎にも角にも対象自体に「動き」があることが絶対の要件であり、更にその「何々」自体が季語であることが一番望ましい。
 関西では幸いなことに自然との距離が近いし、こういう対象として一番身近に見られる「田植」とか「稲刈」なども、昔のままに手で植えたり刈ったりする状況をいくらでも見られる。(後略)

(波多野爽波「枚方から・写生とは(その一)」)

出穂の香のはげしく来るや閨の闇  『一筆』(以下同)

日中でも暗い寝室と読めなくもないが、夜、眠ろうとして灯を消した後と読みたい。稲田の景は昼のものとして描かれることが多いが、掲句は夜。一日を終え、暗い寝室に深い息をした時、予想外の濃密な出穂の香を吸い込む。稲の生命の生々しさを感じる句。

からし溶きわさびも溶いて星月夜

秋は夜空も澄んで星がよく見えるが、特に新月の頃、月と星とが輝き合う様を星月夜と称する。さて掲句、わさびは刺身のものであろうが、からしは何に付けるものだろう。食卓に並んだ数々の料理、そこに集う多くの人、何とも賑やかな景がありありと見える。

ソース壜汚れて立てる野分かな

明言されずとも句の背後に人の姿の見える句とそうでない句があるが、掲句からは全く人の気配を感じない。汚れたソース壜が立っているのは食卓の上。かつて団欒の場でもあったはずの食卓だが、現在は無人。野分の激しい風が庭木や窓を鳴らす音が響くばかり。

燈下親しむに涎を拭ひつつ

「灯下親しむ」とは、灯火の下で読書や団欒をすること。いかにも秋の夜長を想起させる季語だ。掲句の場合は、団欒ではなく一人で読書に没頭している状況であろう。「拭ひつつ」という言い方からは、一度ならず何度も涎を垂らしては拭いする様子が目に浮かぶ。

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