自由律俳句を読む 21
荻原井泉水 〔1〕
馬場古戸暢
荻原井泉水(おぎわらせいせんすい、1884-1976)が河東碧梧桐とともに『層雲』を創刊したのは、1911年のことであった。そこでは、「俳壇最近の傾向を論ず」など、さまざまな俳論を掲載した。碧梧桐が『層雲』を離れて後は、『層雲』は井泉水の主宰誌となった。井泉水による、碧梧桐に端を発する新傾向俳句の批判、検証を通して、自由律俳句はまた更新されて行く。
力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝 荻原井泉水
私自身、鶏がそばにいない人生を歩んできたためか、ドラマの中の一シーンを見ているかのような感じさえする。昔の農村の風景とは、このようなものだったのだろうか。
たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く 同
たんぽぽが砂浜で咲き始めた様を、「春が目を開く」とした句だろうか。子供の頃、砂浜に生えているたんぽぽに腑に落ちないものを感じていたことを思い出した。何故か「たんぽぽと砂浜の組み合わせは変だ」と感じていたのである。
空をあゆむ朗朗と月ひとり 同
井泉水の代表句のひとつ。「月の舟」の歌を思い出す。最後の「ひとり」は、月のことと同時に、そんな月を眺める自身のことをも指しているように思う。
湯呑久しくこわさずに持ち四十となる 同
この湯呑との付き合いがどのくらいに及んだのか気になる句。しかし、四十にしてこのことに不意に気付いたとすれば、湯呑を一層愛しく想えそうだ。
ただに水のうまさを云う最期なるか 同
残される人にとって、先に逝く人の最期は非常に重要な出来事である。明るいことを云ってくれたならば、救われることだろう。
※掲句は伊藤完吾「荻原井泉水」(『自由律句のひろば』創刊号/2013年)より。
2013-12-01
自由律俳句を読む 21 荻原井泉水 〔1〕 馬場古戸暢
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