【週俳12月の俳句を読む】
それでも愛し愛されて生きるのさ
小津夜景「ほんのささやかな喪失を旅するディスクール」について
石原ユキオ
三白眼のおとめごころや寒プリン 小津夜景
たいていのひとは上目遣いをすると三白眼になる。「上目遣いでおねだり」なら単なる媚びだが、「三白眼でおねだり」に言い換えてみると途端に怖くなる。三白眼のおとめは鋭い目線で何かをたくらんでいる。寒のプリンの冷たさと甘さが歯にしみてくる。
とこしえと賭しあい冬のシェスタかな
「とこしえ」は「愛」と結びつきやすい言葉である。「とこしえと賭しあい」と言われてイメージするのは結婚だ。永遠の愛を誓いますか。誓います。永遠が勝つか愛が勝つか。ウェディングドレスと燕尾服の真っ白な昼寝。
前半の俳句十句のあとに詩が置かれている。
そこで語られるのは、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を再読していること。
おそらく
実らなかった恋の果てに
終わってしまった愛の果てに
わたしは
言葉で人を愛するすべを学んだのだ
と、筆者は書く。そして
(ついでにいえば
わたしは言葉で人を愛すってのも
実はほとんどジョークなんだけど)
とも。
言葉は曖昧な関係性に輪郭を与える。たとえば「愛」。そして人は日々お互いの関係を言葉によって確認し、補強する。ゆえに「言葉で人を愛する」以前には、愛なんてなかったと言うこともできる。
けれど、かつて言葉も何もなく親しく寄り添う瞬間もたしかに存在していた。だからこそ、
そして今のわたしは
人さえ言葉で愛すのだ
(下線引用者)
と言わねばならず、「わたし」の述懐はユーモアを交えながらも感傷の色を帯びるのだ。
前半十句には「溺死」という言葉が登場した。後半の十句には、死を連想させる言葉がさらに多い。「喪(ほろび)」「メメント・モリ」「殯」「血だまり」。
もがりぶえ殯の恋をまさぐりに
虎落笛(もがりぶえ)のさびしい音を聞きながら、死んでしまった恋に触れにゆく。「まさぐりに」という言葉は性的な接触も想起させる。
しろながすくじらのようにゆきずりぬ
シロナガスクジラは最大で三十メートル超(Wikipedia情報)。ゆきずりにしてはずいぶんと長いゆきずりである。「とこしえと賭しあい冬のシェスタかな」と対になって、二人にとっての永遠の時間がたっぷりとした量感で存在している。
この作品に登場する俳句は、多くが言葉遊びの要素を持っている。「三白眼」と「寒」、「もがりぶえ」と「殯(もがり)」と「まさぐり」等々。
音の類似性から言葉を選ぶことによって、言葉は日常言語における意味から解放され、論理では到達できない組み合わせで配置されることになる。いったん意味から離れて言葉を選ぶことは、言葉にならない領域を指し示そうとすることであり、「言葉をしらないわたし」に近づこうとする試みなのかもしれない。
性懲りもなく愛という煮こごりを
冷えて固まった「愛」を箸の先でつつき、口に運ぶ。
それが舌の上でとける瞬間、わたしたちは言葉をもたないだろう。
第345号 2013年12月1日
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第346号 2013年12月8日
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第347号 2013年12月15日
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第348号 2013年12月22日
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2014-01-12
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