小川春休
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賞与出て奢りいささか嵐山 『一筆』(以下同)
年末賞与も冬の季語。この時期爽波は既に俳句専業だったはずで、同行の誰かのことか。冬の嵐山でどのような贅沢をしたのか、しかしそれも普段と比べて「いささか」、僅かばかりというところににやりとさせられる。調子も良く、ボーナスの時期にふと思い出す句。
晦日蕎麦もぐらの話出でにけり
大晦日の夜に食べる年越し蕎麦。そこに唐突に現れたもぐらの話。その取り合わせの唐突さから来るナンセンスな面白さもさることながら、気の置けない間柄で畑仕事の話でもしているのだろうか、リラックスしたその場の雰囲気が臨場感を持って想像される。
ここから「昭和六十三年」に入ります。
この年や破魔矢の鈴の鳴り過ぎよ
正月の縁起物として神社で破魔矢を授ける。今年は例年に比べて殊更に破魔矢の鈴が鳴る。それも鳴り過ぎと言って良いレベル。破魔矢は厄除けとも、一年の好運を射止める縁起物とも言われるが、果たしてこの鈴は、吉兆を伝えているのか、それとも凶兆か。
男山よりぞ破魔矢のちりぢりに
男山八幡宮は、京都府八幡市にある石清水八幡宮の旧称。日本三社の一であり、日本三大八幡宮の一でもある由緒ある男山八幡宮、さて新年の破魔矢は何本ぐらい用意されるのであろうか。それらが一本一本各家庭に分散していく様は、想像するだに壮観な光景である。
繕ひし垣膨れむと力かな
春になると、冬の間の霜や風雪に傷められた竹垣・柴垣などを繕う。繕ったばかりの垣は整然として美しいが、それは植物という自然物を整え、抑制して作られた美でもある。間も無く芽吹きを迎えようかという季節、整えられた垣も、膨れようとする力を秘めている。
沈丁の憎つくき家に満開に
そもそも憎んでいるのは住人の方であったはずだが、憎悪の感情が高じれば、その家までも憎くて仕方がなくなる。その家から、気付きたくなくとも気付かざるを得ない、沈丁の強い香。満開の花が甘ったるい香を周囲に放っていることさえ、腹立たしく感じられてしまう。
老いぬれば脳みそ減るとお白酒
歳とともに脳細胞は死滅し、その数を減ずる。その事自体はネガティブなイメージだが、折しも家族揃っての雛祭の席。脳味噌が減ったのを口実に、都合の悪いことを忘れた振りしているだけかも知れない。なだらかな詠みぶりがどことなくユーモラスでもある。
朝寝せしことより話し始めたる
朝寝を春の朝のことに限って季語とするのには、孟浩然の「春眠暁を覚えず」という詩句の影響もあろう。掲句、出会うや否や、朝よく寝たことから話し始めているが、余程気心の知れた間柄でなければこうは行くまい。何とものんびりとしたのどかな気分の句。
炉塞いで使はぬ櫛が家ぢゆうに
昔ながらの炉を備えた住居では、春になると使わなくなった炉に蓋をして塞ぐ。炉を塞いだ部屋は広々と感じられる。「使はぬ櫛」が誰の物かは明示されていないが、成長して家を出て行った子供や、既に鬼籍に入った年長者などの不在が改めて思い起こされる。
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