SUGAR&SALT 09
待遠しき俳句は我や四季の國 三橋敏雄
佐藤文香
「里」2010年12月号より転載
『長濤』には、笑える句がたくさんある。作者は対象を把握する方法として、どうやら老人ぶることを身につけたらしい。
すこし漕ぐ炬燵やぐらを春の庵 三橋敏雄
たうなすをときに枕や草の庵
いやいや、庵とは、これいかに。
『長濤』を収録し『三橋敏雄全句集』が出版されたのは敏雄六十一歳、敏雄翁と呼ぶには早過ぎる。騙されてはいけない。あくまでも老人ぶっているだけで、老人になったのではない。笑った後にぽっかりと淋しい。
それはなぜかと考えると、一句のもつ空間が目に見える範囲であり、しかもそこに無駄なものが入って来ないように仕立てているからではないだろうか。
呼戻す行方不明を春の山 三橋敏雄
日の春の横穴をみな出で来る
桃採の梯子を誰も降りて来ず
ものの存在を書く上で、「来る」ことがひとつ鍵になっているように感じた。帰って来る、来ない。それは戦争その他で失った仲間への思いから、かもしれない。略年譜中、「〜死す。葬儀に参列。」の記載が続く。
〈表札は三橋敏雄留守の梅〉という、一見とぼけているように見える作も、もう一人の自分を訪問すると不在だった、既にどこかでこの世を退いていた自分を思い描いているようでもある。生き長らえることを目指していない。
また、老いの感慨を体験して喜んでいる賢い青年、のような雰囲気もある。それは海上生活を離れて十年を経て書かれる記憶とも言うべき海の作品が、潔く巧いからではないだろうか。
思はざれば外海は無し呼子鳥 三橋敏雄
海に出てしばらく赤し雪解川
長濤を以て音なし夏の海
懐古も老人の趣味のうち、老人は昔のことの方がよく覚えているから……で済ますなと言わんばかりの、海の広がりよう。中七を形容詞の終止形「〜し」で終えて切り、下五は体言止めの三句を挙げた。さすが敏雄。と、思いきや、
水兵の頃の釣床猫背の因 三橋敏雄
まるで嘘のように、この句があった。
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