俳句の自然 子規への遡行31
橋本 直
初出『若竹』2013年8月号
(一部改変がある)
(一部改変がある)
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前回に引き続き、子規の「芭蕉雑談」における芭蕉句評と「俳句分類」について追う。今回は、
辛崎の松は花より朧にて
に着目したい。まず、芭蕉存命当時この句が難じられたのは切字の問題であり、「にて」止めの妥当性についてであった。子規は芭蕉より後代の俳書「芭蕉翁俳句大成」の説をもとに、この「にて」は典拠である「から崎の松の緑も朧にて花よりつゞく春の曙」(後鳥羽院)の「にて」を覚えず使ったものだとし、「此句は此歌を翻案せしものなれど翻案の拙なるは却て剽窃より甚だしき者あり。(中略)芭蕉の為に抹殺し去るを可とす」とかなり厳しいことを述べている。
しかし現行の注釈書類では子規の説は顧みられず、「詩的開眼につながる一句」(今栄蔵校注『芭蕉句集』新潮日本古典集成)や、「余韻を残した終わり方はすべてがおぼろな湖岸の描写に適合して秀逸」(雲英末雄・佐藤勝明訳注『芭蕉全句集』角川)のように、この句の評価は非常に高い。
実際のところ、子規が批判の拠り所とした書物のいうように、芭蕉がこの後鳥羽院の歌とされるものを本当に意識して引いていたかは未詳である。尤も、子規としてもその真偽の実証はさておき、旧派宗匠を批判する戦略上、ひとまず芭蕉を批判する材料さえあれば良かったのかも知れない。
さて、この句は「俳句分類」では春の部「朧」中の下位分類「(植物)」に分類されている。七句あるうちの三句までが辛崎にかかわるが、芭蕉以外の二句はいずれも後代の作者が芭蕉句を意識したもので、やや知の働きに傾く。
辛崎の一句を賛す
器世界に物あり一ツ朧松 也柳(三千化)
唐崎
朝凪や朧を残す松の色 馬光(馬光句集)
一句目の「器世界」は仏教用語。世界にとりたてていうべきものは、この芭蕉の詠んだ朧の松だ、くらいの句意であろう。その他四句も「松」と「花」のとりあわせである。
淵
松影の龍に働く朧かな 雄山(宝暦十一)
花の蔭朧に見ゆる女哉 吐江(芭蕉庵再興集)
狩くれて花を朧の街かな 遅兎(新虚栗)
そもそも「辛崎(唐崎・韓崎)」は、古くからの近江の歌枕であり、既に『万葉集』にも詠まれ、平安時代には『枕草子』に「崎は 唐崎」(二七三段)と記され、『能因歌枕』に紹介されていた。また、和歌では伝統的に、月、夜雨、(唐崎の)一本松とともに詠まれている。さらに、歌枕としての「志賀」は、旧都(大津宮)の渚の花園としての風情を詠まれており、芭蕉の句はそれらをすべてふまえた作句であった。つまり、「辛崎の~」句は、歌の歴史的文脈をたっぷりと言外に湛えたものなのである。
対象に潜む前近代の歴史的文脈を取り払い、見たままそのものを写し取ることで対象そのものの美や詩情を表現する「写生」を方法の第一とする子規からすれば、この芭蕉の作句方法そのものが糾弾されてしかるべきものかもしれない。しかし、子規に絵の方法である「写生」を教える中村不折との出会いは、この「芭蕉雑談」の執筆を終えた直後のことであり、この項を書いている子規の念頭にいわゆる「写生」はまだない。子規の俳句革新の中心が俳句へのリアリズムと個人主義の導入であったとするならば、この段階ではまさしく個人主義的に、この句について先行する他者の作品を模してかつ失敗していることを非難をしたわけである。
次に、季語「朧」(朧夜や朧月は含まない)と植物を配合した子規の作句を確認すると、以下の四句が見出せた。
①朧とは桜の中の柳かな 「寒山落木」 明二三
②花のくもおぼろをやぶる筏哉 「松山競吟集第四回」
(句会稿)明二五年七月三一日
③花の雲朧をくだく筏哉 「寒山落木」抹消句 明二五
④月のなき夜の朧なり松の花 同前 抹消句 明二六
このように、みな「芭蕉雑談」執筆の明治二六年以前の句である。また、「俳句分類」の句と同様に、すべてに桜か松が詠み込まれている。つまり子規は、それまで江戸以来の型どおりの句作をしていたと言ってもよく、俳句分類と「芭蕉雑談」執筆を通し、この取り合わせの陳腐さを自覚し、作句したものも抹消句としたのではないかと思われる。
一方、明治二七年以降の子規の「朧」の句は二十句程度あるが、「行燈を消せば小窓の朧かな」(明二八年一一月「早稲田文学」)のように、自然物ではなく人事物との取り合わせが多くなる。実は、「俳句分類」の「朧」の下位分類に人事での項目立てはない。四項目ある中の、いわば「その他」にあたる「除地理」に人事句が数句あるのみで、少ないのである。子規はそこに目を付けたのだろう。句歌のメモや絵も含まれる最晩年の随筆「仰臥漫録二」(明治三五)にも、題「朧」(朧月・朧夜含む)で一七句あり、うち「末遂ゲヌ恋ノ始ヤオボロナル」他十句が「日本」に掲載されている。
ところで、子規は死の二ヶ月前、「朧」ではないものの、
辛崎の松は片枯れ片茂り
という句を「日本」(七月二四日)に発表している。きちんとした写生句のようでもあり、枯れゆく老松の姿を自己に重ねているようにも思われる。
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