【八田木枯の一句】
野は天にいでやすくして揚羽蝶
角谷昌子
野は天にいでやすくして揚羽蝶 八田木枯
大正14年に生まれ、14歳で俳句に興味を持った少年は、父・海棠の句〈木枯や沼に繋ぎし獨木舟〉から俳号を採り、自ら「木枯」と名乗る。当時、その名前と確かな作風ゆえに、実際の木枯を知らぬ「ホトトギス」の人々は、老人と思っていたらしい。
長谷川素逝、橋本鶏二に師事し「ホトトギス」俳句の骨法を習得するが、何かものたりない。俳句の方向性に悩んだ末、22歳のとき、山口誓子の作品や選句幅の広さに魅かれて入門を決意する。そして伊勢天ヶ須賀で保養中の誓子を訪れたのが、運命の出会いとなった。
昭和23年に誓子の「天狼」が創刊されるとさっそく参加し、同年6月号で〈汗の馬芒のなかに鏡なす〉などが初巻頭を得る。
当時、誓子の「酷烈なる俳句精神」を標榜する「天狼」は文学青年たちの憧れの俳誌だった。同年、木枯は遠星集の上位をほとんどの号で占め、翌年も巻頭を飾っている。どれだけ青年たちの羨望と嫉妬を掻き立てたことだろう。
掲句は、「天狼」時代の作品を集めた『汗馬楽鈔』(1988年)に収められている。
揚羽蝶が広い野原を鋭い翅使いで飛翔している。見渡せば野の果てなる地平線は青空と接しており、大きな時空を目の当たりにする。揚羽蝶の荒々しさならば、「天」にまで至ることができるかもしれない。
だが作者は「揚羽蝶」ではなく「野」が「天にいでやすく」と描いてみせた。もちろん作者のイマジネーションの領域なのだが、具象性が強いので、読者はやすやすと木枯の術中にはまってしまう。
なるほど「野」は「天」とつながっており、浮力をつけたならば大地は羽ばたくかもしれない。地球そのものが、宇宙と渾然一体となってしまいそうな巨視的発想だ。
「天狼」時代初期から木枯は「虚」の世界をリアリティをもって捉えることに熱中していたと分かる。また後年、木枯はさまざまないきものたちを陰陽師の式神のごとく使役したが、ここでも好みのモチーフ「蝶」をうまく働かせている。「蝶」は魂やエロスばかりでなく、超現実的な内容を象徴する。この句の「蝶」は「野」に現実の影も落とさず、未練も見せず「天」へとはるかに飛び去って行くのだ。
2014-05-25
【八田木枯の一句】野は天にいでやすくして揚羽蝶 角谷昌子
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