【週俳7月の俳句を読む】
こんにちは、コヌタシオン
月野ぽぽな
●それから
いつもある木に触れてゐる遠花火 木津みち子
花火大会は夏の風物詩。信州生まれの筆者などは諏訪湖の花火大会を思い浮かべるのだが、おそらく人それぞれにとっての馴染みのものがあり、そこが入り口となって、ある普遍的な揚花火の風景というものができあがり、それが共同体としての日本人の心身に共通に保存されているのかも知れない。これが在住のアメリカの花火となると、趣が全く違うのだがそれはまた別の話。
さて、掲句。毎年同じ場所で花火を見てるのかもしれない。そこでいつもの木に触れるその人。木の感触と、花火の姿、夏の空気を渡ってくる花火の音。「いつもある」という生な物言いが、素朴な風合いを生み出していて、読後に漂う懐かしさが気持ちいい 。
●ケア 二〇一四年六月三〇日 - 七月一日
汗や地下を嗄れし喉として帰る 関悦史
声を張り上げて喉を酷使した一日だったのであろうか。切れ字「や」にてクローズアップされた汗。それが、「嗄れし喉として」の思い切った措辞から描き出される、肉体的疲労と心的疲労の塊としての人体のその全身から、吹き出してくるのが見える。その存在そのものを重く引き摺るように、その人は暑苦しく淀んだ地下道の空気の中をすすむ。
●走れ変態
かんかんのう水母は雲の如く浮き 西原天気
この句に出会って初めて「かんかんのう」を知った。中国(当時は清)から渡って来た「九連環」という曲の替え歌で、江戸時代から明治時代にかけて大流行し、そのあまりの加熱ぶりに禁令が出るほどだったという。「かんかんのう」を歌っていた庶民の大半は、一種のナンセンス・ソングとして、意味不明ながら語呂の響きを楽しんでいたようである。youtubeで聴いてみると、なんとも明るく呑気な、遠くの方で大陸的な広さを思わせる曲。「水母は雲の如く浮き」と得も言われず気分が通じるのである。
●火
さみだれの部屋が頭蓋とずれてある 鴇田智哉
外には五月雨がふっている部屋にその人はいるのだろうか。たとえば、「さみだれの部屋」という省略の効いた表現が、たとえば、その人を代表するかのようにメトミニー的に置かれた「頭蓋」が、たとえば、その大きさのちがう「部屋」と「頭蓋」を「が」によって同等に据えていることが、またたとえば、それらが「ずれてある」という表現が、すべてここで、五月雨という独特の雨の降る日の部屋に身を置いた時に体験する独特な感覚を再現するのに貢献しているようだ。そうか。考えてみれば、部屋も頭蓋も共に空間。極めて即物的なこの把握に冴えがあり俳がある。
●豚の夏
豚しまひ忘れし十六夜の産着 荒川倉庫
「三匹の子豚」ではないが、童話の世界に誘われたような感覚。その中でも更に物語性のある仕立ての句。「しまひ忘れし」や「十六夜の産着」という情緒あふれる表現が読者の想像力を掻き立てる。
●小岱シオンの限りない増殖
はじまりの小岱シオンの土偶に蚊 福田若之
「小岱シオン」はこの一連の作品にて生まれたのだろう。新しい言葉に出会ったとき、それはどのように自分に近づいてくるのだろうか。まず手掛かりになるのは<文字>なのだが、もうさっそく「小岱」が読めない。調べてみると「こぬた」と読み、これを苗字に持つ人が現にいるらしい。ほかに「岱」の音読みは、「タイ」 「ダイ」 。訓読みは「かわりあう」 「はじめ」で、字の意味はこのへんにありそう。シオンがカタカナであるのが気に掛かりながらも、次は<音>を意識して言ってみる。「こぬたしおん」。すると。
「connotation」は普通、英語の発音をカタカナして「コノテーション」と表記するようだが、フランス語でもあり、その音は「コヌタシオン」と言ったときの音に似ているではないか。ここで試しに作品名を変換することを許してもらおう。「小岱シオンの限りない増殖」は「コヌタシオンの限りない増殖」に。もしくは「コノテーションの限りない増殖」に。
「connotation」の意味は「言外の意味」「含蓄」。論理学では、「外延(denotation)」と対である「内包」。記号学の概念でもあり、フランスの哲学者ロラン・バルトによると、人間が多様な記号世界の中で受け取るメッセージには、絶えず意味の二重構造の作用、つまりデノテーションとコノテーションの作用が働いている、言い換えると、明示的な意味の作用と潜在的な意味の作用が働いている、という。
記号を代表する言語。一人の人間の生命に比べたら気の遠くなる程の長い時間を生きる言語の深層世界は、果てしなく深遠で謎めいている。過去・現在・未来を自在に行き交い、絶えず生滅を繰り返し、たとえ捕らえようとしてもするりと身を交わす。もしかしたら「小岱シオンの限りない増殖」という作品は、コノテーションに「小岱シオン」という人格を与えることで、深層の言葉の振舞い方を顕在化する一つの試みなのかもしれない、とも思えてきた。
さて、掲句。時間を自在に渡る「小岱シオン」は土偶の時代にも。本来ならば人に寄る蚊が、人を模した土偶に寄る、というところに可笑しみがある。こんなふうに、取り巻く状況との関係が描かれた一コマ一コマを手掛かりに、あらためて「小岱シオン」と知り合い戯れてみようか。映画や小説に途中から飛び込んだときのように。あるいは、この世に、知らぬ間に生まれてきたときのように。すると。
第376号 2014年7月6日
■木津みち子 それから 10句 ≫読む
■関悦史 ケア二〇一四年六月三〇日 - 七月一日 12句 ≫読む
第377号 2014年7月13日
■西原天気 走れ変態 9句 ≫読む
第378号2014年7月20日
■鴇田智哉 火 10句 ≫読む
第379号2014年7月27日
■荒川倉庫 豚の夏 10句 ≫読む
■福田若之 小岱シオンの限りない増殖 10句 ≫読む
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2014-08-10
【週俳7月の俳句を読む】こんにちは、コヌタシオン 月野ぽぽな
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