生きながら永眠する日
鴇田智哉『こゑふたつ』を読む
小津夜景
1 線を引くこと
線を引くこと——ひとつの、あるいはいくつもの。それが鴇田智哉『こゑふたつ』の作句回路である。この本のあらゆる場所に引かれる線は、そのつどにわかに呼吸し、脈動し、生ける〈間〉をなしてゆく。
梅雨の木へつながる糸を曵いてきぬ
空蟬の背中に糸のやうなもの
うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ
黒南風の空を流るる糸のあり
夏空の中へと紐がのびていく
この〈間〉は、主観と客観、即自と対自、などといった二項対立の「あいだ」のことではない。そうではなく、そのもっと上流、ほとんど水源というべき領域にある、知覚と現象とが言語によって未だ分離されていない虚ろな意識の泉、いわば「いまから場になろうとしている場」を指している。掲句にみられる糸や紐の、ふしぎな生命感。どちらが先ということもなく、気がつけば目のあるところに線が生まれ、線の生まれるところに目があるという謎めいたシチュエーション。こうした描写は、私と世界とが完全に分離される一歩手前の現前の、きわめて分かり易い寓意である。この作者にとって線を引くとは〈時空の契機/継起〉の創出にまつわる、ひとつの純粋行為なのだ。
見まはしてゆけばつめたい木の林
ゆつくりと立ちあがりたる冬の瀧
秋風に木のひろがりのあらはるる
尾を曳いて八つ手の花の遠ざかる
木の枝が分かれかはづの目借時
線を引くことから始まる〈間〉の様相は、たとえばこうした句にも明瞭である。一句目は「見まわしてゆく」視線の線的作用を介して、作者が「木の林」と出くわす様子が詠まれているが、ひややかな大気の中、名前のない木が林になってゆくといった現実感の入念に拭い去られた景には〈私の周囲で漸次的に開示されつつある現前〉の雰囲気が大変巧みに込められている。二句目では、ゆっくりと直線をあらわしてゆく水煙のありさまが〈私の眼中に超低速で組成されつつある時空〉のイメージとごく自然に重なりあう。三句目では、風の描線によって、名もなき木のひろがりが〈図でも地でもあるゲシュタルト〉として茫漠と浮かび上がるさまが描かれる。四句目では、八つ手から伸びる花柄が尾を曳いて遠ざかる(=〈間〉をなす)と描写されていることから、作者がこの無限花序の中軸を〈知覚と現象双方の滞留する起点〉とみなしていることがわかる。そして五句目は、四句目と同じく、分枝線を時空の契機/継起として目で追う作者の意識が、睡魔という一種の無垢な虚脱すなわち〈虚ろな意識の泉〉に在ることと関係づけられている。
凩の目をうごかせば風に見ゆ
烟りゆく月をひとさしゆびが追ふ
枕辺にうごいてきたる木の葉かな
いきものの尾の流れゆく夏の暮
白魚がさつきの夢についてきぬ
秋の夜の目のかたはらを逃げる塵
畳から秋の草へとつづく家
一、二句目をみると、作者はみずからの身体をつかって線を引くこともあるらしい。また三句目以降の、うごいてくる木の葉、流れる尾、ついてくる魚、視線をよぎる塵、畳から秋草へ延びる動線などを見ても、なんの変哲もない日常のふとした折にあらわれる〈間〉の存在感、その束の間を伸びゆく息吹が、作句のモチーフの核であるのは変わらないようだ。
水面から剝がれてゆきし揚羽かな
川面からはなびらの吹きあがりけり
障子から風の離るる音のあり
落ちてくる鳥にひろがる秋の空
水面、川面、障子、秋の空といった語は、その薄さや表面性から、時空が時空となる手前の位相を演出するのに大変便利だが、そのような位相から揚羽、はなびら、風の音、鳥などが剥離するとき読者の心を占めるのは、剥離のイメージにまつわる詩性よりも、むしろひらりとめくれるものの線から生じる時空の契機/継起の、その空虚な衝撃そのものである。あるいはこの空虚な衝撃を〈運動によって逆に静止を膨張させる、バレットタイムのような間〉特有の潜勢力と言ってもよい〔*1〕。また次のようなフローモーションでも、作者の知覚の鋭さが逆説的に時間を引きのばし、線のうごきが永遠の継起に留まりつづける〈間〉が描かれている。
ぶらんこをはづれて浮かぶ子供かな
万緑の体育館に浮くボール
さらにこの本には、単なる移動を詠んだ句が非常に多い。ここにも線を引くことによる作者の〈間〉への執着が垣間見える。
かげろふを川向うから来て坐る
いくつもの藤を掠めて海へゆく
夜を過ぎ青葦の辺にさしかかる
春潮をまたいで舟に渡りけり
水引の花の繁みをさまよへり
かげろう、藤の群落、夜の青葦、春の潮、水引の繁み——この作者の手にかかると、こうした何気ない景までが通常の幻想性を遥かに超えた、知覚と現象とが茫乎として絡みあった領域へと変容してしまうから面白い。だがこれもやはり仕掛けがあっての事で、それは作中主体がなにを為すでもなにも思うでもなく、ただ句中を移動し〈間〉を——どれだけ歩いても時の経った感じのしない夢のような〈間〉を——創出するという、それだけの行為を繰り返すからなのだ。
ところで、このような線が執拗なまでに引かれる原因は〈私と世界とが未分化のまま生きられた現前〉とその臨界点を掴まえたい、という作者の欲望に当然関係している。ならばそのような欲望を作者が持つのは何故か。私の予想では、それは認識という行為が言語の行使と同義であるためだ。鴇田智哉のしなやかな作風は、一見とても繊細に五感が駆使されているような印象を読者に与えるけれども、それは完全な錯覚で、少なくとも『こゑふたつ』をこうして眺める限り、この作者が事の初動を原理・構図として捉える、いわば典型的な観念の人なのは全く疑いない。どこまでも頑なに繰り返される現前開示のパターンは、作者の眼が決して現象的世界の多様性を眺めてはいないこと、すなわち「自然に向かって開かれた純粋な窓」ではないことを読者に示しているし、またこの本の目立つ特色である、用心深く限定された数少ない語彙によって構成された句群は、鴇田の作句において常に意識=言語が感覚の上に立つ事実を裏付けていると言ってよいだろう。
ここで忘れてはならないこと、それは「現象的世界の多様性を眺める」といった態度が、人が自分自身を世界の中にいると考えている限りにおいて可能であることだ。他方、鴇田は世界の内部ではなく(また外部でもそれらの境界でもなく)その契機、すなわち〈私と世界とが未分化のまま生きられる現前〉の位相へ自らを関係させ、かつそれを〈世界それ自体についての意識〉として言語化する。それゆえ出来上がった句は、世界の虜となってそこから出ない作家の書くものとは一線を画しているのである。
2 息をすること
ところで、この本では〈呼吸し脈動する生ける間〉が、文字どおり息や脈として表現されることがあるようだ。
白息のほかにかすれてゐる木々も
春の蚊のこゑあり息のやうにあり
煮凝にゆるい呼吸をしてをりぬ
セロリよりしづかに息をしてをりぬ
蛾の森に脈打つ音のありにけり
もっとも、存在を呼吸に喩えることは東西を問わず古来よりのいわば因習である(但し一句目については「見まはしてゆけばつめたい木の林」と同種の洗練があると思われる)。むしろ私は、針系統の語の出てくる句が、この作者独自の趣味が見えて面白いと思った。
秒針が振れて枯葦原に立つ
針を売る人あり桐の花咲けり
赤蟻や針の散らかる音まぢか
針金のまはりの棘の灼けてきぬ
時を暗示し、棘や芽を示唆し、線と同じ形状でもある針のモチーフは、ふるえる現前の心拍や脈動のきわめてこの作者らしい、ちょっと真似できない比喩である。またこの本には稠密な小花や、柄状の花のモチーフも多く、そういったものも作者の針線への愛に由来すると考えられる(ここで語彙分析する余裕はないが、ふたつのタケ(茸と竹)の癖のある使い方も、針線を源とした突起尖端への愛と関係するだろう)。そしてこれよりさらに注目に値するのは、息も脈も針もなしに存在の呼気を示す以下のようなパターンだ。
瞬いてかまきりはすぐそこにあり
傷口があいて真夏に蝶が来る
また空がひらいて空のざくろかな
花烏賊をひらけば波になりにけり
言ひかけの口をひらけば桐が咲き
こうした句には、そう仄めかされるまでもなく、存在のプネウマがありありと感じられる。「て」や「ば」の無垢で含みのない使い方もさることながら、ここでは瞼、傷口、空、花烏賊、言いかけの口、を開くといった〈存在の切開〉が時空の契機/継起をうながし、息づく世界の航跡=痕跡を可能にしているのだ。また掲句には理屈といったものもないが、にもかかわらず読者に対し強烈に理を通してくる。これはとりたてて意味に頼らずとも、時空を拓くことではじめて現前する〈間〉を提示すること自体が、すでに世界という理そのものを体現しているからである。
優曇華やかほのなかから眠くなり
目がかほの真ん中にある棕櫚咲けば
春の蚊が浮きまなうらに目のありぬ
目を洗ふやうに水母を洗ふなり
〈息づく世界の航跡=痕跡〉を描けば、存在の実相は必然的に立ちあがる。そうすれば、こうした奇妙な句も、深い理をもって読者を納得させることになるだろう。クサカゲロウの産卵は針のような、糸のような卵柄をゆらゆらと伸ばした先に白く小さな卵をつけるが、一句目はこうした景と「睡魔という一種の無垢な虚脱、すなわち虚ろな意識の泉」との組み合わせだ。これは本書の一様式として既に見たので説明は不要だろう。二句目も、花柄の群れと虚脱とを取り合わせたパターンだが、顔の中心の単眼は、稠密な花群を凝視すると寄り目酔いしてしまうことだけでなく、分割不全一般の換喩にもなりそうだ。そして三句目と四句目、残像の留まる場であるまなうらに目そのものが映ってしまったり、「水母を見ている目」を洗う気分で「目に見えている水母」を洗うといった光景では、虚ろな意識の状態をめぐる描写を超えて、見るものと見えるものとの間の可逆性(メルロ=ポンティ)が素直に語られている。
文字は手を覚えてゐたり花の昼
うたごゑを口がうたへば孑孒も
木犀は人のことばを聞いてをり
手のなかに指を握ればつちふれり
白息の方へことばを話しけり
「見るものと見えるものとの間の可逆性」とは「主観と客観の方向は逆転できる」という意味で、こうした逆転が生じるメカニズムは、人間がねじれをもつ存在であることに由来するとされる。簡単に言えば、人間とは「意識と肉体」すなわち「精神と物質」といった乖離項を「の」でつないだメビウスの帯(心的な秩序が肉に孕まれ、肉的な秩序が心から生じる)から成り、それゆえ思惟と感覚は原理的に独立しえず常に影響を与えあっている、という考え方である。この主張自体を追うには少なからぬ注釈が必要だが、『こゑふたつ』の主観と客観が可逆的であることの方は、この作者が一貫して〈私と世界とが未分化のまま生きられる現前〉を捉えようとしている以上ごく自然なことであり、掲句もあたりまえの一コマとして読むことができる。もしもそこが〈呼吸し脈動する生ける間〉であるならば、意識と知覚は互いに絡み合ったまま対象を呑み込んでゆくのであり、知覚が感じ、意識が考え、対象が自立する、といった分割はしばしば緩やかにしか起こらないのだ。
3 疵を負うこと
さてここまでは、線を引くことが時空の契機/継起であり、かつそれが〈息づく世界の航跡=痕跡〉となることを見てきた。これは言い換えれば、差延=間隔化こそが現前を可能にする、という意味である。またそこから現在とは、それと意識された時にはつねに遅れ=ずれを孕んでいる場である、という考え方が導き出される。デリダは『声と現象』の中で次のように書く。
《知覚された現前性が立ち現れることができるのは、ある種の非-現前性、非-知覚と、連続的に折り合いをつけているかぎりでのことである。つまり、瞬間の瞬きの中に非-現前性と非-明証性を迎え入れることになる》
《過去把持と再-現前化に共通の痕跡は、差延の運動そのものによって、今の顕在性を構成することにもなる可能性である。この痕跡、この差延は、つねに現前性よりも古く、現前性の開始を引き起こすものである》
《過去把持と再-現前化に共通の痕跡は、差延の運動そのものによって、今の顕在性を構成することにもなる可能性である。この痕跡、この差延は、つねに現前性よりも古く、現前性の開始を引き起こすものである》
ここで言われる「非-現前性、非-知覚」とは、この本のあらゆる場面でみられる、知覚と現象とが言語によって未だ分離されていない虚ろな意識の泉、いわば〈いまから場になろうとしている場〉に対応する。また「非-現前性と非-明証性を迎え入れうる瞬間の瞬き」はしばしばデリダを読む際のアポリアとされるが、これを鴇田は〈延びてゆく線をどこまでも内包するバレットタイムのような間〉として大変シンプルに形式化する。この弾丸時間は原理的に(つまり比喩でない限り)現前しえない亡霊——バレットタイムは奇遇にもデッドタイムという異名をもつ——あるいは痕跡であり、さらにこの痕跡は、再び現前を生きるきっかけを人に与える〈決して存在しない起源〉でもある。
木耳をおくれて少し思ひ出す
木犀をとほり抜けたるかほのあり
舟に覚めもんしろてふのゐたところ
ゐた人の残してゆきし咳のこゑ
をととひの咳のあたりにいてふの木
木耳、かほ、もんしろてふ、咳といった語彙はかつて生きられた〈間〉の名残、その心なしかの痕跡の機能を果たしていると思われるが、それよりも掲句の要所とみるべきは、作中主体の認識の中心が「かつてあった何か」ではないという部分だろう。ここで認識されているものは過去ではなく、過去のかすかな痕跡を手がかりとした「自分が図らずも今ここにいること」の方である。現在の二重性(=再認が成立させる今)のこうした描出の仕方は、無限に〈間〉を引きのばした(=不断に現前を差延した)臨界点の破れに生じる空ろな啓示のありさまをとても的確に捉えている。
ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり
天井にうすい絵のある桜の夜
春陰の木に手の跡をつけてきし
まつしろな時のをはりを草虱
綿虫のとほりし跡のあかるかり
白い鯉のぼり、薄い絵、手の跡、草虱、綿虫、といった残滓めく遺物が、夕暮れの畳、桜の夜の天井、春に翳る木、真白な時の終焉、通った跡などの、仄かさの際だつ〈間〉と関わる姿。それは差延の運動からふとこぼれた表徴が、現前の余白へと静かに身を寄せつつ〈間=決して存在しない起源〉に擬態しているかのようである。だが無論それは叶わない。三句目の手ではなくその跡を置く仕草からは、直接性の忌避ないし起源への距たりが読みとれるし、また五句目、綿虫という白くはかないものの移動した跡が「明るい場所」と呼ばれるとき、読者は痕跡というものが〈現在というかつてあったものとの邂逅〉であるとともに〈生けるそれとの別離〉をも意味していることを知るのである。
ゐるもののまはりに竹の葉が散りぬ
十薬にうつろな子供たちが来る
ぶらんこに一人が消えて木の部分
ゆふぞらをつらぬく胼の体かな
皹の指をひらひらつかひけり
ここでは、ゐるもの、うつろな子供たち、消えた一人、胼の体、皹の指などの、実体性が損なわれていたり損傷を負っていたりするものが、句中の景に対し、実在と非在とを兼ねそなえた亡霊のごとき痕跡として作用している。殊に四句目、夕空をつらぬいてゆく身体がひび割れているといった状況を『声と現象』風に解釈するならば、すなわち生ける〈間〉とはその有限の生を無限に引き裂くことによって成立するという意味で既に死を含んでいる、したがって〈間〉から生じる残滓、亡霊、亀裂、枯死といったものは、どれも生における死の痕跡なのである。五句目の、ひらめく指があかぎれているのも同じ原理、すなわち現在性とは時空の切開であるがゆえに、ひらひらと線をうみだす指は疵まみれなのだ。主体の損傷を世界との関係において描く詩はままあるが、生ける現在が同時に死でもある原理そのものが、ここまで明快に記述されるのは非常に稀なことだろう。
空の絵を描いてをれば末枯るる
左手をかざせば空の枯るるなり
夏蝶を見るまに橋の朽ちにけり
摘むとすぐ曇つてしまふ蕗の薹
人が立ちなだらかに地は枯れにけり
4 おわりに
以上の通り、鴇田智哉『こゑふたつ』は、宇宙ひものごとき線を引くことで〈生ける間〉を創出する句集である。また各句は、そのひもが臨界点に達し、主観と客観との可逆性に破れが生じた時ふと思い出される、とてもはかない質量をもった意識=言語そのものである——こう書くと現象学と超弦理論を掛け合わせた怪しい学のようだが、実際この本はそのように書かれている。
こゑふたつ同じこゑなる竹の秋
声を聞いている私と、声を聞いたことを認識する私。ふたつの声とは生ける現前とその痕跡であり、私が「なる」と思った瞬間〈私と世界とが未分化のまま生きられる現前〉が破られ〈現在というかつてあったもの〉が私に与えられる。私が声に気づいたときにはその声は消えてしまっているのだけれど、私はその死の痕跡を受け入れるかわりに、現在性にまつわる幽かな託宣を得るのだ。このことは鴇田の有名句「人参を並べておけば分かるなり」でも全く変わらない。「人参を並べておく」のは生ける間の私。それが「ば」の転回を経て「わかる」というあっけない衝撃に——その空ろな死に——私は出会う。このように鴇田智哉の句の軽さは生きられた現前の痕跡が放つ軽さであり、生が内包するひとひらの死の軽さである。
時報とははなびらの舞ふ空を来る
ひとひらの死の軽さ。それは本書中、私が最も胸を衝かれたこの句にもはっきり現れていた。時報というリテラルな時のシーニュ。その純音の空虚には、時を進めつつそれを止めてしまう不思議な作用がある。
そんな純音の空虚がとてもゆるやかな弾丸のように、無数の花びらの舞い散る空を伸びてくる、とても心地よいインスタレーションのような句。この句の美しさはまさしくデッドタイムの航跡とその痕跡の、すなわち〈生きながら/死んでいる/ことを知る〉美しさである。私の思うところでは、佳句に事欠かない『こゑふたつ』において、この句こそが鴇田智哉の世界を最もプラトニックに結晶させたもののはずである。
折よくこの秋には彼の第二句集が出るらしい。そちらで見ることになるだろう新たな世界にも期待しつつ、それまでは出会ったばかりのこの句の世界に、せっかくだから浸っていようと思う。時報の音にふと我に返りながら、花に酔って少し眠たくなりながら、時の弾丸にひび割れる花びらがどこまでも膨張しつつ静止する〈間〉の中で、生きながら永眠していようと思う。
〈了〉
*
〔*1〕バレットタイムは、大変長い歴史をもつ「技法」らしい。但しそれが人間の認識の文法を変えうる「概念」として注目され、またその様式が考案され出したのは、比較的最近と思われる(今でも旧来のスローモーションやストップモーションの進化系として——つまり「技法」として——のみバレットタイムが使われる映像の方が圧倒的に多い)。その中でも「現実が仮想空間であること」自体を主要テーマとした『マトリックス』は、バレットタイムと知覚認識の文法とがうまく結合した代表的作品のようだ。詳しい説明と映像例はこちら。
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