【八田木枯の一句】
曼珠沙華空を流るる鞭の影
太田うさぎ
薔薇にほかの名前がついていてもその甘い香りに変わりはないんだわ、とジュリエットは窓辺でため息をついた。
曼珠沙華、あるいは彼岸花はどうだろう、と考えるのは私がこの花をいささか苦手とするからだ。葉のない長い茎といい、花弁を凌駕する長い蕊といい、鳥居のような色といい、ザワっとくる。あの存在感に馴染めない。もしや名前で対象を見ているからではないか。名台詞とは逆に、この花に別の呼称が与えられていればもっと愛でることが出来るのだろうか。路傍のおばさんの頭をそんな疑問が掠めるが、やっぱり無理だなと諦める。悲劇の少女は正しい。他のどの名前に変わろうとも曼珠沙華とは相性が悪いに決まっている。
苦手だからこそ目につくというのはままあることで、目障りだったアイツがいつのまにか気になって、と恋の道なら話が展開するところだ。俳句も似たようなものらしく、曼珠沙華を詠んだ俳句には何となく反応してしまう。
曼珠沙華空を流るる鞭の影 八田木枯(『鏡騒』)
青空だと思う。水面をゆく蛇のようにしなやかな鞭の影が晴天にうねる。検証するまでもなく、現実に空が何かの影を映すことはない。だからこの句に現れた影は心象的なものとみていいだろう。心の中味を空にたゆたわせるのは憧憬や郷愁から来るような情緒的な行為だ。しかしながら、それが鞭の影というのだから穏やかではない。鞭、と言えば私なんぞは世代柄インディ・ジョーンズの持ち物をすぐさま連想するのだが、折檻の用具である。そんなものが流れる空を地上から支えているのが曼珠沙華なのである。面白い。なんだか痛気持ちいいような心地になる。と書くと被虐趣味の性向を告白しているみたいで慌てて言い足すと幻の痛みが美しく描かれていると思うのだ。
“空を流るる○○の影”というフレーズにはいろいろな季語(あるいは非季語の五文字)を取り合わせることができるだろう。こころみに空いている五字と二字に様々な言葉を流し込んでみればそれぞれのニュアンスを帯びた俳句が仕上がる。それでもやはり、鞭の影を空に流すという奇抜な発想に曼珠沙華のユニークな姿の取り合わせは得難い。
そんなことを考えながら、手元の歳時記をめくっていたら松本たかしの俳句を見つけた。
曼珠沙華に鞭れたり夢さむる 松本たかし ※むちうたれたり
たかしの句を念頭においての作品だったのかもしれない。二つの句の比較はさておき、秋晴れの空を鞭の影が流れ、たかしの句が流れ、木枯の句が流れていく。
俳句好きでよかったなと思うのはこんなとき。曼珠沙華もまあ悪くないか。
2014-10-05
【八田木枯の一句】曼珠沙華空を流るる鞭の影 太田うさぎ
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