【週俳10月の俳句を読む】
まあ、たまにはあるよね、そういうことも
田中槐
電柱の努力で満月のはやい 福田若之
電柱と月とくれば、宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」だ。思わず、
電柱たちがわっせわっせと満月を運んでいる絵を思い浮かべてしまった。そこまではしなくても、電柱はずっとがんばっている。電柱はいつもしっかりと立っているし、実直に電線を支えている。賢治のでんしんばしらとは違って、動かないからこそ、満月の動くはやさがわかる。動くとはいっても、動いているのは地球のほうである。そう考えていくと、動いているのは電柱のほうではないか。理屈はともかく、電柱と満月という「絵になる」景色に「努力」の語を加えることによって、この句は神の視線を持った。
天高し行きと帰りは違う靴 二村典子
何があったのだろう。誰かの靴を間違えて履いて帰ってきてしまったのだろうか。あるいは、出先で何かアクシデントがあって新しい靴を購入して、それをそのまま履いて帰ってきたのか。理由はどうあれ、作者はそのことをあまり大げさに考えていないふうなのがいい。まあ、たまにはあるよね、そういうことも、くらいな感じ。「天高し」の季語のせいだな。
月。田毎。やや。あたかも。と。いふ、副詞。 佐山哲郎
夥しい句読点の挿入は、楽譜の休符のように機能する。と同時に、そこには文章における行間のようなものも存在する。最初「月。田毎。」は水張田に映っている月を言っているのかとも思ったが、この句の季語は「月」だから秋の句で、関係なく「月」と「田」を見ているのかもしれない。「やや」「あたかも」という語はなんの脈略もなく浮かび、これは副詞であるという認識だけがある。まるで意識の流れをそのまま書き写したような句だ。ただ、一連の他の句も同じように読み取れるかというとそうでもなさそうで、なかなか難しい。
鬼の子の揺れていささか眠きかな 大西朋
鬼の子(蓑虫)の驚くべき生態(雄には口がなくて餌をとることもなく交尾を終えたら死んでしまうとか、雌は一生蓑の中から出ないとか)を最近知ったばかりなので、ちょっと蓑虫を見る目が変わりつつありますが、この句の雰囲気はよくわかる。「鬼の子」とすることで、ゆりかごの中の赤ん坊(鬼の、だけれど)のイメージが重なるのも楽しい。
煎餅の気泡を噛み砕きて秋 塩見明子
手焼きの、大ぶりの煎餅を思う。ふくらんだ空洞部分を「気泡」と言っているのが新鮮だ。中七から下五への句跨がりが、無心にばりばりと煎餅を噛み砕き続けている様子の描写にも見えてくる。畳み込むように「秋」でおさめ、ここはたしかに秋しかないと、力技のように納得させられた。
いわしぐも駅から次の駅が見ゆ 越智友亮
山手線の日暮里・西日暮里間は駅間がいちばん短くて500メートルほどなので、本当に「駅から次の駅が見」える。実際に見てみたことはないけれど、見えたらなんとなくうれしいだろう。秋のさわやかな天気の、空にはいちめんのいわし雲。のどかで平和だ。通勤や仕事ではない、休日のひとこまであることが伝わってくる。
第389号 2014年10月5日
■福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日
■二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
■佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
■大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
■塩見明子 改札 10句 ≫読む
■越智友亮 暗 10句 ≫読む
2014-11-16
【週俳10月の俳句を読む】 まあ、たまにはあるよね、そういうことも 田中槐
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