下北沢で見たカラフルな白いテレビ
青木亮人・鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃【『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」2014年12月13日・下北沢B&B】極私的レポート
柳本々々
毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉
以前、新宿紀伊國屋本店で行われたSSTのイヴェント(「鴇田智哉句集『凧と円柱』刊行記念トークイベント 「SST俳句大解剖! 2014年10月2日」榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)を拝聴していたときに、関悦史さん・榮猿丸さんのふたりどちらもが選んだ共選句として鴇田智哉さんの 「毛布から白いテレビを見てゐたり」の句について話されていた。
そのときたしか猿丸さんがその句について、「はっきりとぼけている」画面、「震災後の意識」「超越的なものの侵入」「画面の抽象化による危機的なもの」「ホワイトノイズ=死のノイズ」といったことについて言及されていたように記憶している。
そのときからわたしは鴇田さんのそのテレビの句についてかんがえはじめた。
ときどき、深夜、体育座りをしながら、砂嵐だけのテレビをみていたりもした(デジタルテレビになっても砂嵐はまだ映る)。
その後、わたしはアッバス・キアロスタミの映画『桜桃の味』から鴇田さんのテレビの句をなんとか考えられないだろうかと思いながら、下北沢のイヴェントに向かうために 井の頭線に乗っていた。
『桜桃の味』は〈見る〉ことをめぐる映画であり、最終的に雷鳴とどろく〈黒〉から転じて〈白い(ノイジーな)シーン〉にたどりついている。
「人生は汽車のようなものだ。前へ前へ ただ走っていく。そして最後に終着駅に着く。そこが死の国だ。あの世から見に来たいほど美しい世界なのにあんたはあの世に行きたいのか。すべてを拒み すべてを諦めてしまうのか? 桜桃の味を忘れてしまうのか? だめだ、友達として頼む。諦めないでくれ」
『桜桃の味』のことばがわたしよりも井の頭線よりもはやく脳裏をよぎってゆく。
わたしはそれをキャッチしようとする。でも、できない。
スヌーピーのライナスの毛布から鴇田さんの白いテレビの句に取り組んでみるのはどうだろうとおもったが、そのときわたしはもう下北沢に着いている。
イヴェント中、鴇田さんの句集における〈白〉の主題を指摘されていた青木亮人さんが、この白いテレビとはなんでしょう、なんのことでしょう、とおっしゃったので、わたしは顔をあげた。
さいきん、白いフレームのテレビもでていますよね、と青木さんがいう。
ああ、そうか。「白いテレビ」という名辞は、内容だけでなく外郭=筐体をもふくむあえ ての〈見る〉ことの境界破壊的なことばなんだ、とわたしはおもう。
それは〈見る〉ことであるが、〈見る〉ことにはならない。
もしかしたらこの句の語り手はなにも〈見〉てないんじゃないか。
あの、車からほとんどでることのないまま対話にならない対話を交わしつづけた『桜桃の味』の自殺志願者の主人公のように。
わたしの記憶がただしければ、青木さんのことばを継いで鴇田さんが白いテレビの句についてこんなふうにおっしゃっていた。
これは9・11そのものの句ではないが、その《周辺》で書いたような句かなとあとで想起した、と。
そして句集に掲載するさいに《書き直し》たのだと。
わたしはそのとき、その書き直される前の句がどんなだったか、よっぽど手をあげようか とおもったが、まだ質問コーナーではなかったのでやめてしまった。質問をする時間では、なかったのである。
しかし、気になった。とても。
気になったままのわたしはちらと本棚に眼をやった。
本屋でのイヴェントのためにわたしは無数の書物に囲まれていたのである。
わたしはなんとなく眼があってしまった書物の名前をこころのなかで声にだして読んでみる。
『パイプ大全』、と。
──なぜ、鴇田さんは「毛布」の句を書き直したか。
9・11のあと、わたしたちは3・11を〈経験〉している。
わたしたちはテレビがスペクタル化することによって、実質〈見る〉ことがなにも〈見てはいない〉というのだという事態につながっていくような出来事を 〈知〉っている。〈経験〉できないにもかかわらず、〈経験〉したような気になり、しかしその〈気〉が〈経験〉そのものを解体してしまったことを。
わたしたちは、YouTubeでなんどもなんどでも〈9・11〉や〈3・11〉を反復できる。しかし、それは《9・11》や《3・11》では、ない。わたしたちは、なにも、まだ〈見〉ていない。
それでも、わたしたちは、過剰なまでに〈見〉ている。
鴇田智哉の白いテレビの句にあるような、榮猿丸が「ホワイトノイズ=死のノイズ」と指摘したような、〈横〉になった姿態で、おびただしい数の〈横〉になってゆく〈映像〉を。
そのとき、わたしたちは、こう言うしかない。
それは「白いテレビ」だと。
内容、をみているわけではない。わたしたちは、〈テレ ビ〉というそのものの性質=形質をみている。スペクタル化され、〈見る〉行為を奪い去り、しかしわたしたちを〈見る/た〉 者として〈過去の思い出〉を与えていくものの〈媒質〉を。電車が、くる。かえるのだ。
イヴェント中に、田島健一さんが、とても印象深いことをおっしゃっていた。
人間の経験は未来にもある、と。
そのことを帰りの井の頭線でずっとかんがえていた。
「人間の経験は未来にもある」ということを、カフカもベンヤミンもおなじような位相でかんがえていたかも、しれない。
わたしは田島さんのそのことばを、帰りの電車で揺れつつ、ぶれつつ、ノイズをはしらせつつも、ノートに書いてみたりも、した。
書くことは、過去へと痕跡を残していくことだが、どうじに、未来への痕跡としての亡霊を〈経験〉させてゆくことでも、ある。
ルイ・アルチュセールはかつて妻を絞め殺した あとに、『未来は長く続く』という自伝を記した。
そのときアルチュセールにとっての〈未来〉は、たぶん、未来化することのできない、しかし、痕跡としての未来にあったはずだ。未来化できない未来。やってはこないが、志向しなければならなかった未来。
未来の経験。
わたしは、ときどき、句もそうした未来化することのない/できない、しかし志向としてある《未来の経験》や《未来の記憶》を所持しているのではないかとかんがえることが、ある。
だからこそ、ひとは、未来の経験として句をつくり、詠むのではないかと。しかし、それは意識してやっているわけではない。無意識でも、ない。〈未来の経験〉としかいいようがないもの。〈白いテレビ〉としてしかみることがかなわないよ うなもの。
ようなもの、のようなもの。
《ようなもの、のようなもの》は、スペクタルにはならない。
どこまでいっても「白いテレビ」「白い未来」「白い経験」にしかならない。
しかし、句はそうした《未来の経験》を持ちながら、現在の経験や現在の記憶を相対化する。
句は、いつでも未然形=未来形だ。
キアロスタミの映画『オリーブの林をぬけて』では、片想いとしてのらちのあかない恋をうしないかけた青年がラストにえんえんとオリーブの林を走って抜けていく。
駆け抜けるにはあまりにも長すぎるそのシーンもまた、未然形としての未来の経験をかかえている。
だれにも、そのシーンの意味は、わからない。
白いテレビ、だ。
ゴンブローヴィッチの『フェルディドゥルケ』がムーミン関連の書籍といっしょに仲良く並んでいるようなていねいにセレクトされたブッキッシュなひとにはたま らないだろう本屋さん(たぶんこのフロアのどこかにはリチャード・ブローティガンもあなたもいるだろう)のほぼ半分のフロアを使って行われた〈俳句〉をめぐるイヴェントで、気がつけば、わたしは、おおくの〈未来の死者たち〉としての書物に囲まれながらも、「白いテレビ」ばかり、〈見〉ていた。
わたしにとって今回の下北沢のイヴェントは、その意味で、SSTのイヴェントからつながっており、〈カラフルな白さ〉をめぐる連節されたイヴェントだった。
わたしはノイズの混じった車内アナウンスのなかで、ジャン=リュック・ゴダールの映画『カルメンという名の女』におけるトム・ウェイツの曲とともに現れた〈ホワイト・ノイズ〉のシーンを思い出している。
画面の砂嵐を、逆光 のてのひらが、やわらかく執拗に、なぞり、愛撫する。車内アナウンスが、終わる。
渋谷に、着く。
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photo by motomoto yagimoto :ゴダール『カルメンの名という女』の白いテレビのワンシーンを真似てじぶんで撮影してみた画像。 |
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photo by tenki saibara |
1 comments:
柳本々々さんがご自身のブログでの記事に言及されています。
≫http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-501.html
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