抽象の景色
鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ
西原天気
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抽象絵画ならぬ抽象俳句。
鴇田智哉の口から「抽象」という語が出たとき、「二階のことば」という言い方を思い出した。
何年前か忘れたが早稲田大学でのシンポジウムで、鴇田智哉が自身の俳句の方向として語ったこの「二階のことば」という言い方を、これ以降、用いていない。
私たちが日常語は「一階のことば」にあたる。季語は「中二階」? このあたりは正確には憶えていない。
「二階のことば」に関してその日語られたことに、たいそう興味をもった。具体・具象を扱うに適した俳句というジャンルにおいて、二階へ、さらにその上へと、ことばの純化のようなものを推し進めたとしたら(それが鴇田俳句だが)、最後には、重量ゼロ、透明に近い「ことばの景色」になるのではないか(俳句が描く景色ではない。俳句そのものの景色、俳句そのものの姿)。
鴇田俳句の「抽象」は、言語的な意味を濃く解すると少し奇妙なことになる。概念的な句と誤解されかねない。絵画的な抽象を強く意識し、いわば哲学的に講義な抽象化。
『凧と円柱』の掉尾を飾るのが、
7は今ひらくか波の糸つらなる 鴇田智哉『凧と円柱』
であることは、したがって明白に意図的、意図的すぎるほど意図的だ。数字は抽象の最たるものである。
「波の糸」という5音からは、「二一二俳句」という戯れのゲームを想起した。思えば、「二一二」という型は、抽象化の外形的な一例だ。してみれば、鴇田俳句は、17音をもって「二一二」程度の軽さ・薄さ・淡さをめざすものとも思えてくる。
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白。
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋『白い夏野』
ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり 鴇田智哉『こゑふたつ』
毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉『凧と円柱』
高屋窓秋第一句集『白い夏野』(1936年)のスタイル(小見出し・字組等)を『凧と円柱』は踏襲したという。
白は、カメラにおける露出過多? 抽象化のひとつの結果。
あるいは対象を見つめすぎて立ち眩む?
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語の分解。
例:霜柱→霜の柱かな (今井杏太郎)
テクニカルな部分も、作者・鴇田智哉の口から率直に語られた。
鴇田俳句には影響を受けやすいという声を
立ち話レベルでも耳にした。それは俳句作
法としての「語の分解」にも関連するのだ
ろう。これを聞いて、「みなさん器用です
ね。他人の方法をそんなに簡単に取り入れ
られたりするのだろうか」とカジュアルに
思った。ただし、影響を自称他称する句は、
きっと鴇田俳句と似ていない。本人や第三
者が言うほどには真似できていない。
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芸術的・文学的色合いの濃い俳句と、大雑把には言える。鴇田俳句は。
ただ、そこは危うい地帯でもある。
ゲイジュツ、ブンガクに成り上がろうとする俳句。
気恥ずかしくポエムに浸ってしまった俳句。
鴇田俳句のポエティックな様相は、ぎりぎりポエムに堕することを忌避できているのかどうか。
例えば、
うつぶせのプロペラでいく夜の都市 鴇田智哉『凧と円柱』
ポエム? 詩? 俳句? 何度も読んで迷い、私は、まだ答えを出せていない。この句だけ取り出せば、『凧と円柱』が若書きで、『こゑふたつ』を成熟と見ることもできそうだ。
ただ、作者・鴇田智哉自身は、熟考の末に、この句を選んでいる。
「茶目」というキーワードは、このシンポジウムで鴇田智哉からは聞かれなかったが、ゲイジュツ・ブンガク問題は、この「茶目」というスタンスが重要に関わってくるのではないか。
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『こゑふたつ』=線的。
その意味では『凧と円柱』には非・線的、構造的な句が多く混じる。
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この日のイベントが書店で開催されたことは印象深い。私たちは「字」に囲まれて鴇田智哉のことばを聞いた。
鴇田俳句を読むとき、一字一字が声(鴇田流に書けば「こゑ」)になるような気が、いつもする。ページが開かれ、一字一字が声になる瞬間を待っているような句だ。
一方、視覚的な比喩でいえば、一字一字がほぐれて分解していくような幻想も味わう。
字は「音」であり「景色」である。そのことで「意味」という因習から逃れていく。
人参を並べておけばわかるなり 鴇田智哉『凧と円柱』
人参の「意味」など不要。人参が在ること、否、「人参」という字が在り、この句が在り、音になり、ほぐれて壊れていけば、「わかる」。
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下北沢の午後から夜へ、愉しい時間を過ごしました。鴇田智哉さんに、関係者すべてに、感謝。
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