【週俳・2015新年詠を読む】
つながっちゃう新年
山田耕司
正月は、妄想にアマイ。
「初夢」「宝船」「七福神」。ここらへんの扉を開けると、おのずから一句はファンタスティックな方向に走り出しかねない。
それが悪いわけではない。むしろ、その手のファンタジーは「ああ、はいはい、お正月だもんね」「いちいち説明されなくても分かるような気がする」という民俗的な感覚に裏打ちされているようであり、すなわち、新年のファンタジーに目くじらを立てないことによりそこはかとない連帯感を味わうことさえできなくはないのである。「姫はじめ」などという言葉も、他の人と切り離された個人の営みを報告しているというよりは、むしろ、個の営みをなにやら大きなひとつの足並みに揃えさせている趣きが漂う。こうしたおおまかな連帯感というものこそ、俳句という営みを包み込む胎盤のような働きをしているようなのだが、そこらへんの自覚の有無にかかわらず、「ま、こまかいことを云うのはヤメとこ、今日は」という風情がずらっと並ぶのが、新年詠らしさ、というところになろうか。
◆
というわけで、新年詠には、大きなものとつながっている感覚がただよう。
大楠を紀伊大王と呼ぶ淑気 堀本裕樹
御降や御門かたれば訓詁学 赤野四羽
初鶏やヌナカワヒメの胸の玉 小澤 實
それぞれにそれなりの「うんちく」というものが秘められているわけだが、「うんちく」について何か語りたがる知的な主体というよりは、自分自身が立つ座標に大きな柱を入れ直してそれこそ大きなものとつながっている感覚を内外に宣言のように示そうという趣きが、新年詠としての読みどころとなるだろう。ふだんは口にのぼることもないありがたそうな四字熟語を書き初めで大書する晴れがましさ、それとそれなりに地続き。
天地のあはひに生きて初明り 熊谷 尚
呼び名与えよ若水に若潮に 五十嵐秀彦
「メリークリスマス」と騒いでいたのが、一週間後には正月へ突入するのである。クリスマスが、西洋人(ああ、漠然としてるね、西洋人って。ひとククリにしすぎ。でも日本のクリスマスは、こうしたひとククリイメージの西洋を苗床としてこそお祭り騒ぎでいられるわけだけど)に自らを擬していたことをうけて、ことさらに「和」の方へ傾く。そういうわけで、歳神様のゆかりということもさることながら、句がことさら和のメンタリティを神として出現させてしまうことになるのではないだろうか。これはあくまで俳諧の連歌のことだけれど、オモテ六句では「神祇釈教述懐無常」の類は避ける気風がある。それは、しょっぱなから二の句が継ぎにくくなるからでもあるが、その重たさが和歌に対置するところの「俳」の軽やかさにそぐわないからなのではないかと思う。恋の句を越えたあたりからは、奥行きをもたらす風情で、重いのもドンと来なさいとなるようだけれど。
白息や「ジャムおじさん」の描きをはり 中原和也
グールドの唸り溶けざる淑気かな トオイダイスケ
大きなものとのかかわりと言ったって、普段からなじむことの乏しいものにつながっちゃう気恥ずかしさのようなものも、この時期だからこそ意識されるのであろうか。「ジャムおじさん」も「グールド」も、作者にとってなじみ深いものでありながら、であるからこそ、自己とは別の大いなる他者というような役割を与えられているようだ。
こうした、新年詠ならではの大いなるものとのつながりをふまえた上でこそ、この内省にはグッと来るものがあると思うのだが、いかがであろう。
初明り(なに様だよお前)と俺 佐山哲郎
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さて、文頭にも触れたファンタスティックな傾向について。
初夢やドーナツの輪を潜り抜け 金子 敦
初夢のムー大陸に行つたきり 松野苑子
初夢の巨人渋谷に現れよ 高柳克弘
「夢」を前提にしたら、誰が作ろうが、ほぼ言ったもん勝ち的なことになる。ともあれ、「ドーナツ」は場にそぐわないようなスイーツであるからこそ「潜り抜け」から類推される「茅の輪」との関連性が読者にほどほどにもたらされる仕掛けがあるようだし、「ムー大陸」「巨人」がそれぞれ大いなるものへのつながりという定石をふまえていると見ることもできて、すなわち、それなりに新年詠の顔つき。「渋谷」がどのような意図を持ってのあしらいなのか定かではないが、こうした「私の都合」というのがかいま見えるところに現代性のようなものを挿入しようとしているのだろうか。うまくいっているかどうかは、別として。
昆布噛めば鰊現れおらが春 岸本尚毅
昆布巻きの昆布を噛んだら鰊が出て来た、そんなことで喜んでいる「おらが春」の「中くらい」な慎ましさをあらためて感じている、というような内容。しかし、この「已然形+ば」は、ちょっとくせ者。因果関係の筋目を見出して驚いてみせるための仕掛け。驚いている主体の他にその主体を見とどけている自分の存在を示そうという工夫。「けり」や「かな」が絶滅しないどころか、いまだに重宝されているのと同じような風合い。それにしても、ほんとにどうでもいいことにこれ(「已然形+ば」)がついていることがあって、その因果関係がどうでもよければどうでもいいほど、主体と主体を見とどけている自分との距離が感じさせたがる度合いも高いようである。これを近代的な「知」と呼びたければそれでかまわない。「おらが春」という卑俗ないいまわしと並んだときに、その手の客観性はいよいよくっきりしてくることになり、すなわち「身の丈ほどほどのめでたさにとどまるつつましやかなよろこび」という本歌の趣意からクールに身を反らしているようでもある。まあ、この句を自分の状況を述べているとは取らずに、一茶の世界を大いなるものと捉えたうえでツナガロウとする行為として見れば、その知のありようも、新年詠としての格も、収まるところにおさまった感じ。ファンタジーとしての素材は扱っていないものの、こういう仕掛けは私の中でファンタスティックに感じられたので、ちょっと寄り道。
これは、おおむね、自戒として思うのだけれど、新年詠は、「年賀状に書くのにふさわしい句」という方向に傾いてしまいがちになる。それなりに立派だが、あたりさわりがない方向。写真屋さんに撮ってもらう家族写真のような気配とでもいえようか。自分を過度に晒すことも無いし他者をあげつらうこともない安全圏、その晴れがましさを素直に体現できる場としての新年でもあろうし、そうした安全圏そのものをとらえてガタガタいわせるという手もある。それもまた、俳味。
列島砕きつ惑星大の宝船 関 悦史
中途半端なファンタジーで年賀状の挨拶としてまとめてしまうよりも、ここまで突き抜けている方が、ともあれ、面白い。「いつおこるかわからないような未来のことをもてあそぶ荒唐無稽」というフラットな評を呼び込まないように仕掛けられているのが「完了の助動詞 つ」。列島が砕かれるような事態そのものを現時点での認識に座標付けすることで、「え? あなたはそれを感じませんか?」というような問いかけが内包されることになる。現実の列島が物理的には砕かれていないように思えるからこそ、その問いかけは喩なり寓意なりの方向に滲み出してゆくことになるわけだが、その問を読者に押し込んでくるのが「地球の歴史を考えてみればあながち荒唐無稽ともいいがたい惑星衝突」のイメージをまといつつの、ほれ、新年の大いなる妄想「宝船」。新年詠の趣意をワダチにしながら、その安全圏を揺さぶっていて、痛快。
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大きなものとのつながりといっても、何もそれはファンタジー傾向ばかりではあるまい。
「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」。この句について、「谷の中に川があるのは一月ばかりじゃあるまい」という意見があり、なるほどと思う。ともあれ、一月とはすなわち新年詠の連帯感を引きずっているわけで、その連帯感のひとつに「同一性へのまなざし」というのがあるようにも思う。そんな感覚はおよそ合理的ではないため、「なぜ一月なのか」という理屈には太刀打ちできないものの、そもそも合理的なものを最優先に重んじるならば俳句にはあまり接近しない方が良いのでは、とも思われる。
蛸壺の口の揃ひし恵方かな 山口昭男
人日や二つにひとつばかりを問ふ 森賀まり
てのひらに遠き手の甲年明くる 山田露結
のどかさの顔から顔へ欠伸かな 兼城 雄
群れ立つペンギン替えた電球を試した 福田若之
正月のいたるところに貼つてある 嵯峨根鈴子
物と物触れ合はずある淑気かな 依光陽子
初声の後いつせいに飛びにけり 岡田一実
同一性をおもえばこそ、「同一にならざるもの」という差異への類推が立上がろうというものだし、差異があれば、その距離にも思いが及ぶ。そうした「差異」なり「相対性」なり、それらが抽象的な感覚であるからこそ、それを具体的な世界に引き寄せてみる手捌きにおいて、俳味が導かれる。「てのひらに遠き手の甲」は、「なにもわざわざ云うほどのことではないけれど、いわれてみればなるほどそうだ」という点を、身体を舞台にいいおさめる。「年明くる」が添え物の季語にならないでいるのは、「同一性へのまなざし」がさっくりと伝わってくるからなのであろう。個体はありながらその差異について見分けがたい点において「ペンギン」と「電球」は並べられる。およそ関連性がなさそうな事象をつなぎ止めるのは、むしろ新年詠にたいする古典的な認識。教養をそのまま見せるのではなく、語と語のカスガイとして活用し、作品として見せている手腕に注目した。
同一性と相対性などをもてあそんでいると、おのずからそれは自らの座標へとの思いに至る。
焼夷弾吊り上げてゐる初景色 谷口智行
南方に初花火あり火薬なり 橋本 直
自爆せし少女のごとく福笑 内藤独楽
日の丸を軍旗とすまじ初日の出 鳴戸奈菜
初刷りに戦果言祝ぐ世もありし 有川澄宏
重たい。この重たさは、その社会的な素材の重たさでもあるけれど、その手の重たさとは別に、俳句として重い、という感覚がある。「去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子」がその代表例だが〈漠然としていつつも「ああ、はいはい」と理屈抜きに共有されるような〉連体感、それを前提としてみると、その連帯感に明確な方向が発生してしまうのが、俳句としての重さの主要因。もちろん「やむにやまれぬ心情」というものがあって、そういうものは少なからず人に伝えたくはなるものの、それを新年詠で披露するのは「お年玉をもらう時にはじまっちゃった小言」のように「ついで」感が漂ってしまって、その素材の深刻さがかえって浮いてしまうのではないかとも思うのだが、いかが。「自爆せし少女のごとく福笑」は、その内容が不謹慎であるかどうかよりも、「ごとく」という繋ぎ方、そのバイパスとしての修辞の屈託の無さに戸惑ってしまった。
自らの座標を思えばこそ、そして、その世界の果てしなさを理解していればこそ、重ねて云えば、その果てしなさを俳句で表現することなどヤメておいた方が良いという分別があればこそ、「それはそうと、私」という姿勢があらわれるのは当然のことである。
二日はや僕のかたちの肌着かな 竹内宗一郎
新暦三箇所時計五個私室 小久保佳世子
地下鉄道みんな喪中じゃないんだね 佐藤文香
駅伝中継観てる場合か あっ雪の富士 池田澄子
初富士を東戸塚に見てかへる 上田信治
「僕のかたちの肌着」とは、「みんなが大いなるものでつながっていたお正月」を借景にしているからこそ、相対化された個として受け入れやすくなるわけであるが、ともあれ、そのフェティッシュな感覚がむしろ「お正月の一体感の暴力性」のようなものを伝えてくるようでもあり興味を持った。「あっ雪の富士」という台詞は、ともかくたいていの人が見ている駅伝中継という漠たる連帯感から、自己の感性をサクッと切り分ける効果を持つ。と同時に、「観てる場合か」と突き放しつつも、その画面から目をはなしていなかった、そんな「私」の発見がある。「東戸塚」が「西戸塚」や「南戸塚」じゃダメなのか、ということに関しては、「初富士」の「初」との相性というこれまた「それなりに古典的な文脈が無いわけではないけれど説明すると長くなるしたいして合理的でもない」解釈を持ち込むことになってしまって、面倒。それはそうと「見てかへる」の「かへる」にこそ、「それはそうと、私」フレーバーがこめられていて、であるからこそ、初富士の大いなるふくらみと「東戸塚」という俗世界の座標とをつなぎとめているのではないか。
新年詠。その原点は、そもそも「挨拶」。新年の挨拶は「おめでたい」「おもしろい」の趣あり。
新玉のmailのメーも御慶かな 高山れおな
太陽(ひ)の貎がきのうのかおと異うのよ 金原まさ子
メールで挨拶を交わすのも現代的な新年のありさま。mailの「メー」、これはいうまでもなく羊。「新玉」と「御慶」、新年をしめす語が重なっているように見えるので、落語の「御慶」へと視野をひろげると、それでなるほどと落ちつく。〈富くじがあたった八五郎。正月は今まで身につけたこともない裃袴、脇差を差し、固まったようになって大家のところに行き新年の挨拶を教えてもらう。長いのは覚えられないからと言って仕込まれたのが「御慶」。八五郎さっそく長屋中を「ギョケイ」「ギョケイ」と言って歩く。すると向うから仲間が三人やってくる「ギョケイ、ギョケイ、ギョケイ」「何て言ったんだ?」「ギョケイったんだ」「あぁ、恵方詣り行ってきた」〉というような内容。聞き間違えの音遊び系サゲ。文字を音声化する契機が、噺の中に込められていて、まあ、それを知らずとも良し、知っていればなお好しという一句。
金原まさ子の作品。「大いなるものとのつながり」そして「同一性へのまなざし」「それはそうと、私」などもろもろ書き連ねては来たが、挨拶として日常の言葉でそのもろもろを一挙に言い切るパワーをしめくくりに掲げた。どこか遊び半分のようでもある。それこそが、かえって、新年詠の奥行きにふさわしい、そんなふうにも思えてくる。
≫2015新年詠
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2015-02-08
【週俳・2015新年詠を読む】つながっちゃう新年 山田耕司
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