2015-02-08

【週俳・2015新年詠を読む】初日 福田若之

【週俳・2015新年詠を読む】
初日

福田若之


さて、日曜日だ。日本語として「さて、日曜日だ」と書いてあれば、通常はこの「日曜日」を「ニチヨウビ」と読むだろう。不確定なところはおそらくない。

けれど、この「日曜日」のうちに、「日」の読みの定まらなさ、あるいは危うさが現れている。「ニチ‐ヨウ‐」。

初日薄氷を割る  矢野錆助

この冒頭を「ハツヒ」と読み、元旦の光を浴びて緩んだ氷が割れるイメージを思い描くことを自然だと感じてしまうのは、きっと、それが「新年詠」として〈初日薄氷を割る〉と書いてあるとすでに明らかにされていて、それを信じて読むからなのだろう。「初日」だけが新年の季語になりうるのであって、そのためには「ハツヒ」と読まざるをえない。

しかし、たとえば、「ショニチ」と読んではいけないことがあるだろうか。この句から、今日は何かの初日であるというおそらくはわくわくした気分を抱きながら、あたかも子どもが遊びでするようにして薄氷を蹴り割るイメージを、思い描いてはいけない理由があるだろうか。

余談――辞書類を調べると、「ショニチ」と同義で「ショジツ」と読むこともあるらしい:用例は思い浮かばない→漢文訓読に用いる読み?

おそらく、日常生活の中で「初日」を「ハツヒ」と読むことは、「ショニチ」と読むことよりもずっと少ない。だから、単に「初日」と書いてあるときには、それを見て「ショニチ」という読みのほうが先に思いつくという人も多いのではないか。単に、「初日」という表記だけがある場合、個人的には、脳の中で、「初日」という表記と「ハツヒ」という読みをつなげる通り道よりも、「初日」という表記と「ショニチ」という読みをつなげる通り道のほうがよく舗装されているし、街灯で明るく照らされてさえいる。「初日」を「ハツヒ」と読むことは、決して、昇る初日のように自明なことではない。

――いや、俳句の言語は日常の言語とは意識の上でも区切られているのであって、俳句では「初日」を「ショニチ」と読むより「ハツヒ」と読むことのほうが多いだろう。

――たしかにそうだ。しかし、そもそもこの〈初日薄氷を割る〉を俳句として読むことは、決して自明ではない。「初日」にしろ「薄氷」にしろ、そこに季語はあるが、全体は五七五ではないのだから。そしてまた、仮に「初日」を「ハツヒ」と読むとしても、それと「薄氷」の両者を共存させることは、「初日」が新年の季語とされるのに対し、「薄氷」は初春の季語とされる近代以後の俳句の季節感覚からの逸脱となるのだから。

――そうやってつきつめてしまえば、そもそもこれを文字として、言葉として読むことすら、決して自明ではない(これは月並みな引っ掻き回しだ)。それでも、〈初日薄氷を割る〉は、言葉として読む場合には言葉になるのであって、日本語として読む場合には日本語になるのであって、俳句として読む場合には俳句になる。

そして、俳句として読むとき、この句の「初日」を「ショニチ」と読んだ場合の読み解きの可能性にも少なからず魅力を感じるものの、やはり「ハツヒ」と読むこともやめられない。なぜか。

七十二節季のもろもろの侯。たとえば、立春の第一候は「東風凍を解く」。この句はこうした七十二節季の文体を借りることによって、繰りかえされる季節の反復のなかへ織り込まれようとしている。そして、「ショニチ」は季節の反復とは無関係の時間の枠組みの中で規定される。対して、「ハツヒ」は季節の反復の枠組みのなかにある。「ショニチ」は句の時間に干渉するノイズとなるが、「ハツヒ」は句の時間に波長を合わせ、それを増幅させる。「ハツヒ」はそうして、「ショニチ」よりも、さまざまのことを思い出させてくれるのだ。

   

先へ進もう。もうひとつの、決定的な不確定要素がある。「薄氷」だ。これは「ウスライ」と読むことができ、「ウスラヒ」と読むことができ、「ウスゴオリ」と読むことができ、さらには「ハクヒョウ」と読むこともできる。

「ウスライ」はこの四通りの読みの中で発音が最も短く、音楽的な速度を感じさせる。「ウスラヒ」なら「ハツヒ」と「ヒ」の脚韻を踏むことができる。 「ウスゴオリ」なら「ゴオリ」の音のざらつきが出せる。「ハクヒョウ」なら「ハツヒ」とは「ハ」と「ヒ」の韻を踏むことができる。

これはもはや意味の次元の選択ではほとんどなく(どれにしても薄い氷だ)、こう言ってよければ、意味の音楽の次元の選択である。それらはどれも捨てがたいように思われる。それで、句を読み返すたびに、アドリブでそれを演奏する。「薄氷」の表記とそれが示す意味は、コード進行やモードのように読みの幅を規定しているが、それの中でどう読むかは、読む人間にかかっている。

   

ここまでですでに、読みは「初日(ハツヒ)〔が〕薄氷(ウスライ、ウスラヒ、ウスゴオリ、ハクヒョウ)を割る」と「初日(ショニチ)〔に〕薄氷(ウスライ、ウスラヒ、ウスゴオリ、ハクヒョウ)を割る」 という風に複数化した。さらに付け加えると、とりわけ「初日(ショニチ)〔に〕薄氷(ハクヒョウ)を割る」となると、これはわくわくした気分というよりはむしろ、初日から不安で「薄氷を 踏む思い」だったのがそのまま踏み割って失敗してしまうという不吉なイメージの具現にも読めるだろう。ただし、この読み解きではとたんに諷刺の色合いが濃くなるので、個人的にはあまり魅力を感じない。

さて、今、こうして「薄氷」を複数化し、すなわち、「ウスライ」と「ウスラヒ」と「ウスゴオリ」と「ハクヒョウ」に割ったのは、この句の読み手として仮構された〈私〉だった。そして、句の読み手である〈私〉は句自体において仮構されている語り手の〈私〉に共感しながら俳句を読みうるに違いない。ここからさらに、また別の読みの可能性にも思い至る。すなわち、「初日(ハツヒ)〔である。/そして、語り手の〈私〉、あるいはそれに共感する読み手の〈私〉は〕薄氷(ウスライ、ウスラヒ、ウスゴオリ、ハクヒョウ)を割る」と読むことも出来るはずなのだ。俳句として読む場合に、連続する名詞の間に意味上の切れを見出すことは特別なことではないのだから。

その時、句の言葉に共感している〈私〉は、今やすっかりそのものとして昇った初日の光のもとで、あたかも言葉を複数化していくように、薄氷を繰り返し割る。気の向くままに。そして、薄氷はそのたびに、さまざまな光と音を返してくれる。この句は、読むたびに新しい。



≫2015新年詠
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