〔ハイクふぃくしょん〕
声
中嶋憲武
『炎環』2013年9月号より転載
カスヤ君の奥さんが病気だと言うので見舞った。病気の原因は分からず、それほど悪くもないので、家で寝たり起きたりを繰り返しているようだ。カスヤ君と奥さんのりっちゃんと僕は、学生時代以来のつき合いだ。同じサークルに所属していて、三角関係めいた事もあった。今では遠い昔の話だ。
カスヤ君の家は大塚のマンションの小さな一室だ。訪ねるとリビングに通され、お茶を飲み近況を語り合った。しばらくしてカスヤ君は、自室から一体の人形を持って来て僕に見せた。カスヤ君が商談でパプアニューギニアへ行き、相手のチルリ族の長から貰ったものだそうだ。高さは十五センチほど。泥製で全体に黒っぽい灰色をしている。鳥を思わせる相貌のフルフェイスの面をすっぽりと被り、片手を挙げて何かの舞踊のような手振りをしている立人形だった。どうもこの人形を部屋に置くようになってから、リツコの具合が悪くなったみたいでねとカスヤ君は言った。最近では幻聴などもあるらしく、一昨日などは誰かに呼ばれてると言って、フラフラと出て行こうとしたんだよと、憂鬱そうな顔になった。当のりっちゃんはと言うと、昨日から眠り込んでいて起きないらしい。
帰り際に寝室を覗くと、こちらに背を向けてりっちゃんはぐっすり寝ていた。
山手線に乗って新宿で降りる。紀伊國屋で二三冊本を買って雑踏を歩いていると、ぎょっとした。りっちゃんが歩いているではないか。早足になって追いつこうとしたが、りっちゃんは人ごみに紛れてしまった。その場でカスヤ君に電話すると、りっちゃんは寝ていると言う。他人の空似かと思ったが、確かにりっちゃんだった。腑に落ちない思いで帰路に着いた。
数日後、カスヤ君から電話があった。会社から帰ると、りっちゃんは起きていてベッドで本を読んでいたが、ふと窓を見ると「鳥が呼んでいる。行かなきゃ」こう呟いたそうだ。カスヤ君がどうした、しっかりしろと声を掛けると、はっと目覚めたような顔をしてカスヤ君を見たかと思うと、吸い込まれるように眠ってしまったらしい。余程、新宿の一件を話そうかと思ったが、これ以上カスヤ君を混乱させるのもどうかと黙っていた。
数週間後、電話するとカスヤ君は、鳥が呼ぶ鳥が呼ぶって譫言を繰り返すのだと沈んだ声で言った。
ひと月程経て、りっちゃんが死んだと言うメールが来た。急いで訪ねるとカスヤ君はすっかり窶れ、こう語った。近所へ買物に出るとリツコの姿を見た。不思議に思って、後を着けてみると途中で見失ってしまい、胸騒ぎがしたので、家へ帰った。部屋でリツコはすやすやと眠っていたので、安心して読書をしていると、あの譫言が聞こえた。寝室へ行ってみると、もう冷たくなっていたと言うのである。そう話すカスヤ君の背後の書棚に、件の黒っぽい人形がひっそりと置かれていた。
パプアニューギニアの黒き人形春の昼 藤本る衣
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