【週俳4月の俳句を読む】
いまも昔もきのうも今日も
岡村知昭
花時やいまも昔も頬やせて 阪西敦子
いったい「頬やせて」いるのは誰なのでしょうか、なぜ「頬やせて」しまっているのでしょうか。「いまも昔も」なのですから、「頬やせて」いるのは過去の誰かであり、いまの誰かである、というのは間違いないのですけれども、それがいったい誰かなのかをはっきりと示せない、いや示さないのは、その「誰か」に自分も含まれているのではないか、との考えが脳裏をよぎるから、なのかもしれません。桜の花の眩しき盛り、頬はやせていても眼の輝きは決して失われないままに、桜の向こうにある何ものかを見つめようとしている誰か、いや私の立ち姿。「頬やせて」いるこのときに、懸命に見つめようとしているのは「いま」でもなく「昔」でもなく、「未来」なのかもしれません。幾星霜藻の連なりを経ても、変わることなく誰かから誰かへと、つまり誰かから私へと引き継がれた営み、私から誰かへと引き継がれる営み。なぜ、とはあえて問いますまい。「頬やせて」いる誰かの立ち姿はいまこの場所にあって、そしてこれからもあり続けるのは間違いないのですから、「いまも昔も」そして未来も。
葉牡丹が特殊な性癖だとしたら 北大路翼
いったい葉牡丹における「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのでしょうか、それはほんとうに「特殊」なのでしょうか、いや待て、「葉牡丹における特殊な性癖」とそのままに取っていいのでしょうか、ほんとうは「葉牡丹であるにも関わらず特殊な性癖がある」との意味ではないのでしょうか、との堂々めぐりに、果たして終わりは来るのでしょうか。堂々めぐりを終わらせるために、ここは深呼吸して落ち着いて、さてもう一回見直してみると、「だとしたら」ということは、もし葉牡丹が「特殊な性癖」なら自分は「普通の性癖」とでも言いたいのでしょうか、いやそんなことはありますまい、この「だとしたら」には、もしそう「だとしたら」いったいどうしたらいいのだろう、との隠しきれない戸惑いが感じられはしませんか、これまで培ってきた葉牡丹と自分との関係が大きく変わってしまうのかもしれない、との恐れが見えてきませんか、と思いめぐらせていると、ではそこまでの怖れを抱かせるらしい葉牡丹の「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのですか、とふりだしに戻ってしまいました。果たして「特殊な性癖」の答えが見つかるときは来るのでしょうか。
第415号2015年4月5日
■北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
■外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む
■阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
■西原天気 戦 争 10句 ≫読む
2015-05-10
【週俳4月の俳句を読む】いまも昔もきのうも今日も 岡村知昭
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1 comments:
「性癖」ってもともと「性質」とほぼ同じような意味だったと思いますが、昨今は「性的嗜好」のニュアンスで使う人が多いですね。
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