【週俳4月の俳句を読む】
「そこらへん」の話
山田耕司
ゴールデンウィークだからといって、どこかにでかけなければならないわけではない。にもかかわらず、どこかにでかけなければならないという気持ちにそれとなくよろめかないわけでもない。休みがまとまってとれるということもあるが、それよりも「なんとなくそうなっているから」という気分に流されているからこそのヨロメキである。そして、それは「そうしない理由が見つからない」という感覚と表裏一体でもあり、つまるところ、個としてのおもわくを越えたところで人の行動をつきうごかしてゆくシカケとして、これを「文化」と呼ぶらしい。
「文化」の時間は循環する。個の生命があともどりのできない矢印のような時間にあるとするならば、「文化」の時間はひとりひとりの人生の枠を越えて、つまり、ぐるぐると「そこらへん」にただよう。
「そこらへん」にただようためには、いくつか条件がある。
ひとりひとりの時間を越えるわけだから、それが特定の「ひとり」に独占されるような「色つき」では困る。そんなわけで「誰のものでもなくあたりさわりのない」感覚を感じうることでこそ、ひとりの人間の命を越えそうな「そこらへん」にかかわることができる気持ちになれるわけだけれど、それは同時に、「顔のない体」みたいな動作主を自然と受け入れてしまうことでもある。
あいまいであってこそ、「そこらへん」の輪郭は成り立つ。「そんな感じがする」というのが何も言い合わずにわかりあえるだけでよい。それが「そこらへん」の輪郭のようなものを決めているようで、同時代を生きていてもわかりあえなければ別の「そこらへん」に所属しているようでもあるし、時代や環境を越えてでもわかりあえちゃうならば「そこらへん」は共有されている。
◇
『古今和歌集』の「季」の部立やら「花札」を例として出した方が分かりやすければそうするけれど、まあ、そんなに弁護側の証人を増やさなくても、季節の循環をいっぺんにみとどけるときに「日本」の「そこらへん」は強めに感じられる、ということはできそうである。実際にその季節のその事物を体験しているかどうかは関係ない。「ああね、季節はめぐってるよね」というのを疑わずにすむ安心感のようなもの、それがあればよろしい。
北大路翼の12句は、まさしくこの「そこらへん」のシカケを舞台としている。「誰のものでもなくあたりさわりのない」ステージを花屏風によって読者の前に用意する。これは、すなわち、「顔のない体」を主体とする「そこらへん」の召喚でもある。そして、そんなうすぼんやりしたひらたい世界を、まぎれもなくひとりの肉体をひとりが占有するそんな「男」が通過するのである。
近づくほどにブラジャーは紫陽花だな 北大路翼
「紫陽花」が「ブラジャー」にという見立てであれば、「そこらへん」に軸足を置きながら「ユニークなものの見方」を披露しているということになるのだろうが、「ブラジャー」がまず「近づくほど」の物理的あるいは人間関係的な距離にあり(それはつまり個のいる座標が個の肉体のあるところに示されているのであって)、そこと「そこらへん」の世界へとを北大路はひらりとつないでしまっているのである。
そもそも、季のめぐりを一望するということは(ひとりの人間が同時にいくつもの季節を直接体験することはできないわけだから)、その段階でそれぞれの事象が「季節をあらわす約束事」としてふるまっているわけで、ということは、書かれている花が目の前にほんとうにあるかどうかは特に問わないよという「作者と読者の間における了解」が提示されることでもあろう。花を一年分並べてみせることがそうした了解へたどりつくのを、北大路翼は充分心得ているようである。「そこらへん」の住人としてふるまいつくすのでもなく、同時に、自分がたりを完結させてしまうのでもない。「そこらへん」と、そこになじまない者との交差によって、つまり異次元のものが接続してしまったときに生まれる気圧差のようなもの、そのクラクラした感覚こそ彼が体験したいものなのではないだろうか。〈遅桜お金がなくなつたら死なう〉などは、肉体のありようがわかりにくいせいか、あるいは桜と死のリンクが強烈だからだろうか、個のありようが「そこらへん」が放つ味わいなれた世界に引き寄せられ回収されてしまっているようにも見える。この手のおさまりの良い句に浸食されないようにしながら、かつ、気圧差でクラクラするスタイルを維持するのは、かなり大変なことだろうと思う。と、同時に、この人ならまだまだおさまるところにはおさまらないだろうという妙な信頼が、北大路翼にはただよう。
◇
ひとつの国にはひとつの均質な「そこらへん」があると決めつけたり、ある時代をある年齢層で生きたからそこにはやはりひとつの均質な世代的「そこらへん」があると考えたりすることは、かなりうさんくさい。
うさんくさいけど、そういううさんくささが消滅しないのは、かつ、むしろ元気が良さそうなのは、つまり需要があるからなのである。世の中の価値観のようなものがわかりやすことがそのまま安定感をもたらすとする人の、そのどちらかといえば無意識なもたれかかりがあるのだろう。
そうしたうさんくささを嫌い、もたれかかりを疑う。そんな営みは、たとえば「そこらへん」の花屏風を拒絶したり、たとえ「顔のない体」であれそれが抱え込む身体の気配を拒絶してみせたりもするのだろう。
外山一機は、かねがねうさんくささを嫌いもたれかかりを疑うことをその営みとしてきているようであるが、このたびの「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」にも、その傾向はよくあらわれている。
ドラゴンクエストというゲームの世界観をまずはひとつの「そこらへん」としてくくることで、俳句を読み俳句を作る人達が無意識に手まさぐりする花屏風的な「そこらへん」に対して別の結界をはりめぐらす。もうひとつは古くからの口誦唄のフレーズを召喚して、そこにもまたドラゴンクエストとは別の「そこらへん」結界をつくる。消費材としてのゲームのフレームと消費や再生産からとりのこされたような古謡のフレームとの摩擦に、現在のジャーナリスティックなイメージをふくんだ言葉をチラと配して国の行方のようなものを心配している風情すら添える。こうした一連のシカケは、すなわち俳句をめぐる無意識の「そこらへん」文化領域を嫌ったり疑ったりするか営みの生み出すところ。また、ゲームにおける主体と口誦歌謡における主体との混交をこころみることで、自らの身体感覚はもとより「そこらへん」に織り込まれている「誰のものでもなくあたりさわりのない」身体感覚さえも去ろうとしているようにも読むことができる。
みーたーなあ? けけけけけっ! いきてかえすわけには いかぬぞえ。
かあ〱からす
まだ夜は明けぬ
明けりや切られる
足袋のひも 外山一機
「かえす」という言葉を軸として苦界のならわしへと読者を誘導してみせているのだが、このふたつの世界観の摩擦こそ見届けることはできるものの、その摩擦に社会に対してであれ文芸に対してであれ何らかの批評性を期待するのはやめておいたほうがよさそうだ。外山一機にとって、俳句を書くということは俳句であることを嫌い疑う行為と等しいのであろうし、それはすなわち無意識によこたわる「そこらへん」への異議申し立てのようなものなのだろう。ともあれ、これらの作品が、「俳句として読まれることで生まれるであろう違和感」のようなものを期待して書かれたならば、むしろ「そこらへん」の呪縛からのがれるどころか、むしろそれを抜いてしまったら成り立たないほどに深くうさんくささやもたれかかりに依存しているとも言えるのではないだろうか。
いずれにせよ、この作品群は、読者に対して、「共感」や「同意」を求めるのではなく、「今まで信じてきた俳句って何だったんだろう」とか「え? これでも俳句なの?」という感情を期待しているのである。その行為そのものを俳句への批評性として評価することは可能であろう。と同時に、これを、かくも盛大に道具立てをほどこし、かつ、すでにある世界を相対化してみせる批評性で作品を武装しながら、その実、それらが自らの存在を隠し消し去ろうとする営みにすぎない、と理解することもできるだろう。俳諧連歌のころよりそのシステムに含まれている「自分を消し去るしくみ」としての俳句のありよう、その一表現として今回の作品を読み取る方が、どうにも私の好みではある。
◇
腕組みのポケット歪む花見かな 阪西敦子
いうまでもなく四季の巡りにおいて花見は女王のような風格を示す。連句における「花」「月」の定座には、それがただたんに美しいからであるという美意識の作用もあることながら、季節全体をいったんおおきくとらえるからこそ生まれる「そこらへん」の世界を「わかってるよね」「うん、わかってる」と了解し合うための符合のような役割すらあるだろう。
つまり、花を見るとなったら、それはある植物の開花をひとりで観察するというよりも、同じ世界を共有している人々とともに時空を越えて咲く「花のイメージ」を見上げることになるのが、少なくとも俳句の世界の「そこらへん」領域としてうたがわれもせずなじんでいるところではないだろうか。花を見るというのは、いきおい、ひとりの人間の命を越えそうな「そこらへん」にかかわる快楽を体で感じる契機ということもできるだろうし、同時に、「顔のない体」みたいな動作主を自然と受け入れてしまうことで、自分が自分から少しずれてゆく陶酔を味わう契機ということもできる。
そういう「そこらへん」の呼吸をよく知り抜いている者の作であると思うことにより、この句のおもむきは際立つことになるだろう。腕組みは、その体がひとつであることを示す。「顔のない体」の群れの中に、それにはなじまぬ固有の体をさし込んでいるのではない。おおよそ「顔のない体」のままであるといっていい。「誰のものでもなくあたりさわりのない」感覚の象徴のような花見において、「そこらへん」世界の住人である「顔のない体」を、そのままふとひとりにしたような気配がここにある。ポケットの歪みとは、対面した他者の胸元に見出すものというよりも、腕組みをした本人が自らの胸元のポケットを上から見ることにおいてこそ確認することができるものであろう(そうなのだ、この主体は花見なのに花など見てはいないのだ)。こうした構図を明確に書き示すことは修辞的な手堅さといえばもちろんそうなのだが、同時に、その主体が誰であろうが関係なく成立する「そこらへん」環境のさりげない保全であるともいうことができよう。仮に、俳句性というものを、こうした主体のあいまいさをそれとなくわかりあう「そこらへん」を共有する関係であると考えたら、阪西敦子はそのあたりの呼吸をこころえた達人ということになるのかもしれない。
もちろん、たとえばこの句を、個人的な日記の記録として捉え、作者の個人的な事情をあわせて思い起こし(それなりな範囲で)、句を鑑賞することも可能だろうし、そうなったら、こういう句はドラマに欠けた平板なもののように受け取られてしまうかもしれない。しかし、たとえば「花」=「あはれなるもの」と「ポケット」=「まめまめしきもの(実務的で合理的なもの・風流なものの対極)」との対比などが、王朝文学の美意識などにもリンクしてしまうような読みをひきうけることにおいて、こうした句は作家の個人記録を超越してしまって「そこらへん」の重層的なひろがりをもつような気がするのだが、いかがであろう。
◇
戦争にいろんな事情九条葱 西原天気
戦争という言葉があり、九条とある。これで、日本国憲法を連想し、改憲をめぐる論議や集団的自衛権の是非についてなどをからめた読みをほどこすことができる。九条葱とは、ずばりと日本国憲法を指ししめすのを避けた配慮であり、むしろ具体物の名前に託すことによって俳句らしい即物性を担保しつつも日常へのまなざしをしっかりと提示することに成功している、などという解釈も成り立っちゃうかもしれない。
〈いや、これは真剣な顔で戦争のことを議論するテーブルに、「いろんなジジョウ」と「クジョウ葱」との軽い言葉遊びを滑り込ませたくて作った句、なのではありますまいか〉などという説を、ここに掲げたとしよう。すると、それはたちまち「不謹慎だ」「コッチはまじめに考えているのにふざけていて不愉快だ」「不純だ」という批判が飛んでくるのは想像に難くない。
どうにも「そこらへん」の枠に対して「序列」を意識する傾向があるらしく、「生老病死(俳諧連歌の用語で言えば述懐・無常に該当するあたりか)」や「純粋」なことは、まず、その上位を占めるようである。
そりゃ、生きていてその手ごたえとしての人生の告白を軽く扱うのもいかがかと思うし、純粋と不純とを比較すれば(何を具体例に想定しても構わないけれど太宰治『御伽草子』の「かちかち山」のウサギが純粋・タヌキが不純というふうにすると伝わりやすいかもしれない)、そりゃ純粋の方がキレイだし価値がありそうなのである。「命の絶唱」などというフレーズが肩書きにつけてあれば、その作品は、なんだか批判がはばかられるということもある。
一方、言葉遊びなんぞは「あってもなくてもかまわない」チープな価値といえば、まさしくそのとおり。
であるから、言葉遊びへの傾倒を読みの中心にするものがいてもさっさとそんなこだわりは退けられてしまって、深刻なテーマがそこにあればそちらを汲み取ることにこそ読みの本流が生じるのである。このことは、読者の姿勢にかぎるものではない。作者もまた、「ほおっておくと重くなる」のである。社会的なテーマや境涯的な慨嘆なんぞをまぜこまないかぎり何かを言ったことにならない、そう思う人も少なくないようだ。
「そんなに伝えるべきメッセージがあるならば、その表現形態は俳句じゃなくてもかまわないのじゃあるまいか」と、まあ、身もふたもないことをあえてここで確認してみようか。それでも、俳句において重たいテーマにこだわる作者も読者も絶えることは無い。これを「そこらへん」境域形成のしくみで考えてみると、要は、あらがうことがはばかられるほど強い「そこらへん」を召喚することで、その価値を含んだ作品を送り出した作家としての自分が「純粋」であると評価されるのを期待しているのではないか、と推測もうまれてくる。
戦争はぜつたいあかん夏蜜柑 西原天気
なにも西原天気が不純であり、純粋さを茶化す一方であると言いたいわけではない。彼は、少なくとも世の「そこらへん」に懐疑を示すというふうでもなく、むしろ寄り添っているかにみえる。しかしながら、たとえば、戦争とはそれぞれが純粋さを重んじた不寛容なる「そこらへん」同士の間にこそ発生してしまうことに思いをいたすならば、こうして「アカン」「ミカン」の言葉遊びをすべりこませることで異なる次元の「そこらへん」を提案しているのであり、その純粋さへのまぜっかえしこそが、実のところ「戦争はぜつたいあかん」というメッセージをこの世に具現化していくためには必要なプロセスになるではないか、と句の奥底を読むこともできよう。
まあ、作者にしてみれば、上記のような「何か役に立つようなことを実は秘めている」系の読みよりは、「あ、なんかまじめのような面白いような、けれどもうまくその魅力が伝えられない」という受け取られ方のほうが好みかもしれないのだけれど。
第415号2015年4月5日
■北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
■外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む
■阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
■西原天気 戦 争 10句 ≫読む
2015-05-10
【週俳4月の俳句を読む】「そこらへん」の話 山田耕司
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