ニはニンジャのニ
『冬野虹作品集成』の一句
福田若之
個々の俳句の質感を近代科学の身ぶりで語ることはできるだろうか。それはほとんど不可能なことのように思われる。コミュニケーションの道具としての言葉の意味が少なくともある程度までは客観的なものであるのに比べて、言葉の質感は本来的に主観的なものだからだ。普通の意味での現象学は、「質感とは一般に何であるのか」や「人はなぜ質感を感じるのか」などの問いにしか答えることができないだろう。それに対して、それぞれの質感は絶対的に個別のものだ。句が変われば、人間が変われば、質感も変わる。しかし、それだけではない。言葉の質感は、厳密にはそれに触れるたびに、あるいは触れながらにしてさえ刻々と、変化していく。あるときには新鮮さを感じた言葉が、しばらくしてみるとまったくなんの感興も惹き起こさなくなっていたという経験は、あなたにもあるのではないだろうか。そんなふうに、言葉の質感については、いつだって個別のもの、しかも、いくらか刹那的なものとしてしか、語ることができない。ここで、『冬野虹作品集成』(書肆山田、2015年)から一句だけを標本のように採取することには抵抗がある――本心を言えば、この作品集は全体で味わいたいものだ――けれど、まずは一句を引くことからはじめたい。
『冬野虹作品集成』の一句
福田若之
われわれの記憶機能は類似するさまざまなイメージをあれこれと選び出しては、それを新しい[現在の]知覚に向かって投げ出しているのである。しかし、そのイメージの選択は盲目的に為されているのではない。あれこれの仮説を暗示し、遠くからその選択を主導しているのは、知覚の後に続く、そしてその知覚と想起されたイメージ群の共通の枠組みとなっている模倣運動なのである。
(『新訳ベルクソン全集2 物質と記憶――身体と精神の関係についての試論』、竹内信夫訳、白水社、2011年、140頁)
個々の俳句の質感を近代科学の身ぶりで語ることはできるだろうか。それはほとんど不可能なことのように思われる。コミュニケーションの道具としての言葉の意味が少なくともある程度までは客観的なものであるのに比べて、言葉の質感は本来的に主観的なものだからだ。普通の意味での現象学は、「質感とは一般に何であるのか」や「人はなぜ質感を感じるのか」などの問いにしか答えることができないだろう。それに対して、それぞれの質感は絶対的に個別のものだ。句が変われば、人間が変われば、質感も変わる。しかし、それだけではない。言葉の質感は、厳密にはそれに触れるたびに、あるいは触れながらにしてさえ刻々と、変化していく。あるときには新鮮さを感じた言葉が、しばらくしてみるとまったくなんの感興も惹き起こさなくなっていたという経験は、あなたにもあるのではないだろうか。そんなふうに、言葉の質感については、いつだって個別のもの、しかも、いくらか刹那的なものとしてしか、語ることができない。ここで、『冬野虹作品集成』(書肆山田、2015年)から一句だけを標本のように採取することには抵抗がある――本心を言えば、この作品集は全体で味わいたいものだ――けれど、まずは一句を引くことからはじめたい。
無邪気な忍者だったつるつる二月 冬野虹
しかし、この句だけでは質感をうまく語ることができない。僕はこの句を読んだとき、より新しい別の書き手の一句のことを思い出す。それを呼び出しておくことでこの句の質感を語る助けにしたい。
しかし、この句だけでは質感をうまく語ることができない。僕はこの句を読んだとき、より新しい別の書き手の一句のことを思い出す。それを呼び出しておくことでこの句の質感を語る助けにしたい。
梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 野口る理
『しやりり』(ふらんす堂、2013年)から引いた。字面のうえで二句に共通しているのは「忍者」と「二」だ。ただし、重要なのはその意味ではなく、音である。二句に含まれている「忍者」を構成する各音に「ninja」というふうに色を割り当てると、句の全体はそれぞれこんなふうになる。
mujakinaninjadatta tsurutsurunigatsu
tsuyusamusi ninjawanijininemukunaru
すでに直感的にも感じられていたであろう二句のリズムが、こうして視覚化される。「忍者」の外にも「ninja」たちが忍んでいたのがよくわかるだろう。そしてまた、色の付いた音が密集しているところと、そうでないところがあるのがわかる。そして、黒字の部分にはまた違う反復が読み取れる。たとえば「u」の反復。どちらの句もこの反復される「u」は最初の母音として登場している。そして、「無邪気な」の句は「e」と「o」が一切ない。「梅雨寒し」の句は「e」が一つしかなく、「o」はやはり一切ない。
また、「無邪気な」の句では切れのあとで「tsu」の音が三回現れている。切れの手前で「t」の音が入ってきて、それが切れの後のフレーズでは基調をなすようにできている。一方で「梅雨寒し」の句では、切れの前のフレーズの基調となる「s」の音と切れの後のフレーズの基調となる「n」の音とは母音である「i」によって媒介されているように見える……
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と、だいたいこんなふうに普遍的な語りを通じて、人は言葉の質感にまつわる核心を語りそこなってしまう。音の配置を確認したところで、その言葉の質感それ自体をどう説明し根拠づけたらいいというのか。音素を分析することと言葉の質感を語ることとのあいだには、絶対的な飛躍がある。
だから、飛ぶしかない。僕にとって、「無邪気な」の句の質感は、まず「二月」の「ニ」が「忍者」の「ニ」であるという、意味を超えた接続がもたらす想起に関わっている。つまり、それが「梅雨寒し」の句を思い出させるということは、意味によってそうである以上に、ある質感によってそうなのだ。二つの句は「忍者」という語を調べに溶け込ませることによって、ある質感を共有している。それは、「忍者」という語が液化して広がったその言葉の水たまりの、淀んではいるが決してまとわりつくことのない不思議な手触りである。
そして、もうひとつは、「つるつる」という語のふわふわした感じだ。だけど、こんなことを書いてはたして誰か共感してくれるだろうか。この「つるつる」はふわふわしている、なんて。だから、せめてこう言いなおそう。この「つるつる」は意味としては何かしらの滑らかさを言い表していると思われるのだけれど、質感としては綿雲のようなやわらかさがある。もし、この「つるつる」が質感としてもつるつるしていたら、僕はその質感を感じることはなかっただろう。僕はそれを言葉の意味と区別できずに、誤認してやり過ごしてしまっただろう。言葉の質感のうちで顕著に知覚されるものは、それが記号として本来は全く意味していないことが感じられるときの、その質感である。そして、 「無邪気な」の句が「梅雨寒し」の句に比べてより詩に近づくのは、「つるつる」が意味をほとんど置き去りにするこの一点においてである。「梅雨寒し」の句は意味ある言葉に留まりながらそれを最小限にすることで言葉の質感と意味を両立させる。それに対して、「無邪気な」の句では、「つるつる」が意味の体系から抜け出すことでほとんど記号とは呼べないものとなり、あたかも水たまりに映った青空をゆく小さなはぐれ雲のように、そのやわらかな質感だけを強く印象付けるのである。
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冬野虹が、その俳句において、言葉のさまざまな質感を感じさせてくれる作家であることは間違いない。以下に『冬野虹作品集成』(書肆山田、2015年)の第一巻からいくつかの句を引くことにしよう。
ウレタンフォームのクッションまばゆいばかり冷ゆ 冬野虹
この句の意味から読み取れるのはウレタンフォームのやわらかさ、そして冷えである。だけど一方で、僕にとってこの句の質感は「クッション」という言葉の響きと字面に集約されたかさつきである。この句の描写するクッションにかさつきを感じるというのではない。語そのものがかさついているのである。
水に澄むふたつのからだ羊追う
この句の意味から読み取れるのは一言で言えば透明なものの運動だ。しかし、僕にとってこの句の質感は石のように硬質で不動なそれであって、「だ」の直後の切れは、やすりをかける前の切断面のようにざらついている。
オルフェウス花屋にくらい石がある
この句の意味から読み取れるのはくらさ、石の存在感である。対して、その質感としてあるのは中七のスリムさである。「オルフェウス」と「石がある」にはさまれて、「花屋にくらい」という言葉は僕に腰のくびれのようなものを感じさせるのだった。
そしてうすくすすきになつて洗濯
この句の意味から読み取れるのはうすさだ。しかし、質感はそれとは別の、句の棒立ちである。僕は、この句の「そして」のあたりを平手で弱くはたいてみるのだが、句はそれによってへにゃりと曲がることもなければ、まるごと倒れることもない。
こうした語りは批評としてはいくらか退行的に映るだろう。音節を解体してその差異と反復を分析するほうが科学的であるように、したがって、進歩的であるように思われるかもしれない。しかしながら、冬野虹は、こうした科学的ではない語りによってこそ接近できる作家ではないだろうか。なぜなら、彼女はたとえばこう書くのだ。
who‐are‐youはこすもすもつれきった言葉(「who‐are‐you」に「フー アー ユー」とルビ)
「who‐are‐you」に「こすもす」を、そして、「もつれ」を見出すこと。この句が言葉の質感を語っていることは言うまでもないだろう。この句を読むとき、残念ながら、僕にはその「こすもす」、その「もつれ」を共に感じることができない。けれども、この句は、僕の手をつかんで、「who‐are‐you」という言葉の表面まで持っていってくれる。僕はこの言葉の表面に、光の注ぐ映写幕の、なめらかな手触りを感じとる。
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こんなふうにして、作品集の第一巻をなす冬野虹の俳句のつらなりが全体として与えてくれるのは、質感のうつろいなのだった。あたかも初夏の風にたなびくカーテンのあいだをぬって歩くようにしながら、一方では向こうからからだにまとわりついてくる質感に対して、一方では自ら手を伸ばしつつ、何度も読み返したい――この作品集は、そんな風に思わせてくれる。
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