2015-05-10

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(4) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (4)
今井 聖

 「街」98号より転載

ゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下 
石田波郷『春嵐』(1957)


なんだこりゃ。

ユルギナクツマハフトリヌモモノシタ(シタはモトかも知れない)

「ゆるぎなく」の強調といい、「桃の下」の設定といい、妻の肥満を笑った俗な内容に思える。俗が悪いというのではない。笑いの質が低俗に見える。

この句、今、句会で出たら採らないな、絶対。

この頃の句、他にも、

はこべらや春二重なす妻の顎
妻にのみ憤りをり返り梅雨

肥えた妻、二重顎の妻、憤りの対象としての妻。
こういう句に学べるところはあるのか。

ある。

波郷ファンは大別して二分される。 「俳諧」で波郷を評価する人と、闘病句を主としたリアリズムに惹かれる人と。

ちょっと待て。そういう分類自体が狭量だと言う人がいるだろう。闘病のリアリズムも俳諧の内だと。そういう人にとっては何でもかんでも俳諧。俳諧は万能の万金丹だ。僕は波郷を「俳諧」で評価しようとする人を評価しない。

俳諧とは本来、滑稽、可笑しみのこと。発句のそもそもの発祥がそこに根ざしているとし、自分の理念として主張する俳人も多い。何かにつけて芭蕉に帰ることを旨とする俳人と同様「俳諧」を黄門様の印籠のように口にする薀蓄派も多い。
俳諧即滑稽。そもそも「滑稽」を意図した句とはどんな句だろう。わざとらしい風流な所作か。知的な古典理解か。

滑稽はまた軽みという概念を含む。

軽みとは何か。
 「移りゆく現実に応じたとどこおらない軽やかさを把握しようとする理念」。

何だかもっともらしい老人趣味のような感がある。お前はわかっていないと若年寄りたちに言われそうだ。「俳諧」は万象の造化を言う宇宙観だと平井照敏さんなんかも言っていた。でも僕には俳人のいう「俳諧」は類型的俳句情緒を詠むときの言訳にしか聞こえない。「花鳥諷詠」が万象(心象天然自然)全てを包含するというのと同じくらい胡散臭い言訳だ。

波郷が例えば「篁(ルビたかむら)」というような万葉語を俳句に取り入れた点や、また「初蝶やわが三十の袖袂」「立春の米こぼれをり葛西橋」「春雪三日祭の如く過ぎにけり」「女来と帯纏き出づる百日紅」「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」「桔梗や男も汚れてはならず」のような句の情感に「俳諧的品格」を感じる人も多いのだろう。だから掲出の句も俳諧滑稽の傾向として評価解釈されるやもしれぬ。

しかし、それは断じて違う。

ゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下
はこべらや春二重なす妻の顎
妻にのみ憤りをり返り梅雨

の僕の読み方はこうだ。

波郷の妻を詠んだ句には秀句が多い。

弾み歩む冬の真闇の妻の肩
師よりの金妻よりの金冬日満つ
雛の前妻は溲瓶をさげて過ぐ
選句せり黴餅けづる妻の辺に
菖蒲湯の湯が顎打てり妻入りきて
背に触れて妻が通りぬ冬籠
病室に豆撒きて妻帰りけり

どれも溜息のでるほどの秀句である。

どの句にも通じる基本は敢えていうまでもないが「よく見る」こと。闇の中の妻の「肩」。金というものを二種類に仕分けして語る分類する目。雛の前の動作の機微。餅黴「けづる」妻。湯が顎を打つ瞬間の機微。背に触れての瞬間の機微。豆を撒いて帰るまでの継続的映像。いずれも五感を動員しての「写生」がその魅力。

凝視の眼がまず生かされているということと、波郷には一カットからドラマを展いてみせる能力がある。逆に言えばドラマを一カットの中に封じ込めることができる才能。

掲出句はじっと妻を見て詠む一連のカットの中のひとつとして読むことができる。ゆるぎなく肥る妻も二重顎も、滑稽を意図したオチなどではなく、凝視の果てに得られたこまやかな描写である。また痩せ細った闘病中の自分との比較で妻の健康を賛美し、羨んでいる波郷の「気持」も感じることができる。

しかし、そうは言ってもこういう表現が結果的に読む側の「俗」な通念を刺激することで面白い「オチ」に転化するのは否めない。そして通念を結果的にもたらす書き方はやはり作品としては失敗作と言わざるをえない。

ゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下

は一句としては失敗作ではあるけれど、手法も態度もまぎれもなく波郷流リアリズムの上にある。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



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