【週俳5月の俳句を読む】
影のような色の服
木津みち子
●色見本帖 森島裕雄
ソーダ水イージス艦を挟み撃つ
解釈はいろいろあるだろうが、横須賀の海の見えるカフェを思った。ユーミンなら山手のドルフィン、「海を見ていた午後」である。ソーダ水を囲む恋人、卓上は少し濡れ広い窓の遠景には海とイージス艦、とても興味深い構図である。幸せと緊張が同時に存在するランドスケープ。そして話はここで終わらない。「挟みけり」ではなく、「挟み撃つ」なのだからことは尋常ではない。このソーダ水のアワは恋のように簡単に消えたりしない。ここで撃たれているのは、なんといくつもの標的を同時に追撃できる最強のイージス艦の方なのであるから。
そう思うと俄然想像に羽が生え、撃たれているのは稀代の色男で女性に浮気の言い訳を論破されているのかもしれないし、新入社員同士で社長をぎゃふんと言わせる大作戦を練っているのかもしれない。あるいは庶民の純粋な平和への希求というものは一部の政治家や軍人が大好きな最新兵器に勝ると感じることもできる。読者をあらゆる方向から楽しませてくれるこれはなかなか逞しいソーダ水なのである。
●眠る 五十嵐秀彦
百千鳥幻國に棲む母を訪ふ
「幻國に棲む」ということがどういうことか具体的にはわからないが、一般社会の現実をうまく把握できない状態と解釈した。実際、ある病棟や施設に行くとこのような方が多くいて、ある方は永遠のお嬢様であり、ある方は国会に行くと言い、またある方は社長業に忙しかったりする。ある意味別世界なのである。しかし、しばらくそこに身を置くと現実とは何なのだろう、という疑問が湧いてくる。自分の方は全てがわかっているようでいて実は見えていないもの聞こえていないもの理解できていないものが多くあるのかもしれない、自分の考える現実こそが幻だったのではないか、と。その不安にも開眼の幸せにも似たこれは、百千鳥の森にひとり入ったときと似ている。
母に寄り添うとき作者はそんな錯覚に陥るのだ。それは紛れもなく母への愛からくる肯定感によるものではないだろうか。
糸遊や聴こえぬ耳を持ち歩く
「聴こえぬ」
●アジアへ 武藤雅治
タイの夕暮れのイメージ、それは燃えるようなオレンジ。メナム川(チャオプラヤー川)に映る太陽。やがて川より夜は始まり空に移ってゆく。その悲しいまでの朱色の中に島や建物や人の影だけが黒々と残されている。それは本当の闇が訪れる前奏曲。日本のような生ぬるい闇ではない。時の移り変わりの微妙なところに「火ともしごろ」はある。掲句は余計な説明が一切ない。何を言っているわけでもない。その時間その一瞬を呟いているに過ぎない。同時に作者はさりげなく読者に押し付けることなくしかし確実に感動しているのである。作りのシンプルさゆえに受け手の想像の景は無限に広がる。その前後の人々の営み、町のざわめき、鳥影の変化までを思う。読んでいて非常に楽しい。俳句とは本来こういうものだ、と教えられるような句である。
●ぐるり 村上鞆彦
実桜や風過ぎてよりまた歩む
花の盛りのころとは違う、先を急ぐことはない。強き風あればなにも立ち向かうことはない、じっとそこに佇めばよいのだ。同じ風が永遠に吹くわけではないのだから。単純に景として捉えても人生句として受け止めても味わい深い一句である。
葉桜の蔭を男の顔が来る
男というものは不思議に影のような色の服を着る。もちろん全員ではないがここでの男も例に洩れず。(もし彼が赤いシャツを着ていれば赤シャツが来るとなっただろう。)そして男が初夏の濃い蔭のなかをこちらに来るのであれば、それは顔そのものがやってくるのである。
夏蝶の踏みたる花のしづみけり
これは発見である。蝶が軽いことは誰もが知っていることである。しかし、その動いているが故の重さに注目した。花は確実にその生の重さを嬉しく受け止めているのである。
あんみつの匙なまぬるくくはへけり
この何気なさ。ひとりなのか誰かの話を聞かされているのか、一瞬意識は口の中にある木の匙に飛んでいる。「なまぬるく」があんみつというものの質感をみごとに表している。
電車来るまでのひとりの青嶺かな
ローカル線を気長に待っている作者。こういう景が私の田舎にもある。その単線は一本乗り過ごすと一時間青嶺を独り占めだった。つまり次の電車は相当の間来ないのである。その間わたしは暇を持て余して駅の周りを歩いたり漫画本を読んだり駄菓子屋に行ったりしていたものだが、作者はこのひとときを山に包まれた愛すべき時間として慈しんでいるのである。思えばこんな充実した幸せなときはそうそうないのではないだろうか。
●水脈 下坂速穂
白日傘古地図の海のあたりまで
白日傘は着物によく似合う。そしてその着物美人は日傘の記憶を辿るように連れられるようにごく自然に昔の海辺にやってきたのである。
眺めては遥かに夏の心かな
作者は夏の何かを眺めている。そして遥かと感じている。では、「夏の心」とはどういう心なのであるのか問いたくなる。そうするとこんな答えが返ってくるのだ。あなたがこの句を見て最初に浮かんだものは何か、と。わたしにとっては海。そして海を眺めて遥かに感じている全てが「夏の心」なのだと。
水といふ水にさざなみ梅雨晴間
水のたたみかけるような読み方に梅雨晴間の喜びが溢れている。心がざわめきたつようではないか。
蜻蛉の生れて水に還るまで
木は土に還るという。では蜻蛉は?そう、水に生まれて水に還ってゆくのだ。その間の別れや喜び、旅立ちや冒険、あらゆる事象を経て母なる水に還るのだ。では鳥は、魚は、わたしたち人はどうであろうか。改めて考えさせられる一句である。
第420号 2015年5月10日
■森島裕雄 色見本帖 10句 ≫読む
■五十嵐秀彦 眠 る 10句 ≫読む
第421号 2015年5月17日
■武藤雅治 アジアへ 10句 ≫読む
第423号 2015年5月31日
■村上鞆彦 ぐるり 10句 ≫読む
■下坂速穂 水 脈 10句 ≫読む
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